第3話 イチャイチャ?(未来)編1
髪を解かすのが好きだ。濡れた烏みたいな黒色。櫛を通すたびに泉がわきあがるようにその一本一本が踊る、再び手の中の川の流れが落ち着いて、その艶やかな美しさが一層と増す、その過程が好きなのだ。
そんなことを半分顔をこちらに傾けた柚、三原柚に言うと、そんな表現を実際にしながら言うなんて恥ずかしくないのか、とやや憮然として目を逸らし前を向いてしまった。高野に積もった何にも汚せないような雪が、滴る血に犯されて染まるみたいに。その肌へそっと広がる赤を見て、言われようのない背徳感が私の背筋を這いずり回る。今自分の太ももの間に座る彼女を抱きしめるより、後ろ髪をたくし上げうなじを覗くより、私は快感を覚えてしまう。相手の内側に侵入できることへの悦びと昂ぶりが感情を狂わす。そのようなことを今目の前のやや尖った耳に囁けば、その先端まで薄い皮膚の下で血が滲んでいく様をよくよく観察できるのであろうが、暫く口を聞いてくれないこと請け合いなので我慢する。
燈火、また変な事を考えているんだろう、そう言うと湿った目でこちらを流し見、もう仕舞というようにゆっくりと彼女は私の脚の間から逃れる。そのままゆっくり横に座った柚はすっかりいつもの通りだった。形の良い唇が開くのが見える。少し遅れて聞こえてくる、落ち着いた声が織られて言葉になる、先程までの君の思い出話の続きをしよう、と。
私と出会う前のことだったんだね、その声優を続けるか否かと悩んだというのは。君の演じることへの思い入れを鑑みると、不思議では無い話だと思う。かつ、その選択の結果は本当にどちらにもなり得たんだろう。声優を辞め、燈火と私は出会わないということが十分ありえたのかもしれないと考えると、ifなんて意味のないことかもしれないが面白い。そしてそのような場合、その選択の過程に、こうして一緒に語らえるという結末が依存しているのではないか。それを踏まえて、幾分か抽象化して考えてみたんだ。
次のような選択に迫られたとき、人はどのような行動を取るのだろう。極まって自らの問題であるのに、即その結果はすべからく自らにのみ影響するような事柄であるのに、どうしようもなく決心がつかないという選択である。一番面白い仮定は、こう言ったときに人が取る行動様式が、即ちその人の本性を現すのではないか。
非日常、つまり日常 -普段もはや無意識の規則や習慣と化した行動の集合体- からの逸脱、において、明白な意識上での選択をしなければならない時その人が何にすがるのか、に行動様式の総体としての日常が凝縮し、その時初めて明け透けに伝わるのではないか。だからその時燈火がどう選択したのか、とても気になるんだ。
そう言うと微笑みながらこちらを見てくるわけだが、その知的好奇心に満ちた好ましい造形の微細を、先程のように観察する余裕もなく、精いっぱい彼女の言葉を咀嚼していた。こんな時柚は私の考えが纏まるのをじっと待ってくれる、何故かとても嬉しそうに。といっても、わざとこちらを困らせるために難解に話している訳では無く、彼女曰く自然体であればあるほど、そんな話し方になるらしい。言葉の遣い方は頭の遣い方なので、要は柚は普段そんな風に物事を考えているのだろう。それを必死に考えてくれることが嬉しいのだと、その度に言われる。そんな言葉一つで喜ぶほど純情でも無く、柚の言葉を理解しようと努めるのはくたびれる作業だが、漸く言わんとすることを掴めた時、自分に新しい視点や考え方が生まれるのがただ興味深いだけなのだ。勿論そんな事を言うと、更に柚を喜ばせてしまうので伝えたことはない。
一番近くの体温に寄り添いながら、目を瞑ってそれを探る。差し出された指の細さにこそばゆさを感じながら、そっと息を吐いて記憶を辿る。あの時自分が何をもって選択したのかを、あの濁った時間を。すると、あの選択の日の1か月後、出会った日の事が否応なしに思い出されるのだった。それは差し詰め、凍てついた湖上で奇跡のように透明度を保った氷の一部を見つけると、中を覗いてしまうようだった。