第2話 出会い(過去)編1
「荒鷲さん、これは最後通告だと理解してください。結論から言うと、このままでは当社はあなたとのマネジメント契約を打ち切らざるを得ません。」
飲もうかと思って、燈火が机の上のまだ熱い缶コーヒーを握った時に、彼女はそういった。
やけに白い薄紅の三日月が上下にくっついたり離れたりを繰り返し、その度に出来る隙間から言葉が零れ落ちるのを聞いていた。妙な気分だった。今向かい合っているはずの人間の、あまり感情の浮かばない顔は何となく現実感に乏しい。奥の鏡に映った、やや悄然とした面持ちの女を見て、それが自分だということに気付くのにも時間がかかった。
第三者になって、天井の隅から見下ろしている感じとでもいうのだろうか。今ここにいて話を聞いているのは、自分であるという実感すらわかなかった。
ショックを受けているはずよ、荒鷲燈火。そう見失った自分に問いかける。
何せ、そこそこ頑張って入ったはずの、そこそこの大学を、親の猛然とも言うべき反対を押し切って中退してまで、貴方は声優という職を選んだのだから。そして今何も成さないまま、至極当たり前にその道は無くなろうとしているのだから。
しかし、表れて当然のはずの、危機感や悔しさという感情はあまり表れてこない。同時にそんな感情が血潮に乗って体中を巡ってくれたら、とも思った。
この不思議な冷静さは、もういくらでも頭の中でこんな場面をシュミレーションしたからなのか。それとも、極めて機械的な目の前の彼女の物言いが、呼び起こすはずの激情すらも無かったことにしてしまったからなのか。はたまた、まだ自分自身現実を受け止めきれていないだけなのか。
その全てが違っているようで、また少しばかり真実も含んでいるようだった。だが、不幸なことに、おかしな程に冴えた燈火のその脳みそは、その最も相応しい理由を、自身の中から瞬間的に探し出し、はっきりと提示したのだった。それは諦め。
「もう声優を辞めたって良いじゃないか」燈火はそう思ってしまっていた。
突然左右からぬっと白い壁が迫ってくるように感じた。その不自然な明るさに眩暈がして、思わず瞼を閉じた。暫くの後、緩慢にその瞼をまた開いた。そして、見慣れた顔のマネージャーがやや曇った表情でこちらで見つめているのを確認した。燈火は認めたくない自らの感情をはっきりと自覚して、初めて現実に引き戻されたかのようだった。
そんなことはない、と否定するほど、逆に鮮明にその意見は燈火を捉えてしまった。もう声優なんて、と頭の中で言葉を反芻するだけで何もできないでいた。マネージャーはそんな燈火の内なるショックに気付いてか、気付かないでか、珍しく落ち着かない様子で缶コーヒーを啜ると、しばしの沈黙の後、こう切り出した。
「荒鷲さん、今あなたがどのように考えてるかはともかくとして、事務所としては。」
そこで尻すぼみに言葉を切ったと思ったら、目を伏せると彼女は言いなおした。
「いえ、私個人としては、貴方にはこれからも声優としての活動を続けて欲しい。まだチャンスはある、と考えています。」
燈火は出会ってから初めて聞くような、いつも冷静過ぎるほど冷静な彼女にしては、熱のこもった声色に思わず顔を上げ、それと同時に胸の奥が捻られ続けるような宛てのない思考のループが途切れたことを感謝した。
「この際、個人的な意見を忌憚なく、述べさせてもらいます。まず荒鷲さんには演技力があると思います。確かに、声やキャラクターに、目立った個性は無いですが、話し方には知性を感じさせますし、それは一定の需要があってしかるべきと思わせるものです。」
マネージャーは彼女の持つ何らかの結論に向けて、燈火を説得にかかり始めたようだった。
「ですが、このままではジリ貧なのも事実です。もう可能性を信じて結果を待っているだけでは、この業界で生き残れません。若年化が進む昨今では、決して若いとは言えない荒鷲さんを持ち続けるよりは、より若い人材をプッシュする方に力を入れるべきだというのが事務所の意見です」
「それでも荒鷲さんの可能性を信じるべきだという意見が少なからずあり、先日の会議であと1か月、待とうという結論になったんです。それに、ここは小さな事務所ですが、スタッフ全員が貴方のこの職業への情熱も努力も認めています」
マネージャーはそこで一度言葉を切ると、眼鏡をずり上げ、この説得の最後の仕上げだというようにふっと息を吐いた。
そのとき燈火は、この話がいつも通りのマネージャーの意見に至ることを、燈火自身にあの思いたくなかった感情を負わせた原因に話が至ることを、確信した。そして同時に今回ばかりはその事を真剣に考えなければならないということも理解した。
「後は聡明な貴方なら私が何が言いたいのか、分かってくれますね」
そしてマネージャーもそれ以上は語らないでくれた。燈火はしばし逡巡し、やっと口を開いた。
「そうですね、分かっています。そしていよいよ、目の前の道はもう二又でしかなく、その片方は声優という道からは永遠に外れてしまうことも」
「それなら…」
「ごめんなさい。正直に申し上げて、いまこの状況においても、すぐさま声優に少しでも希望の繋がる道を迷いなく、選択できないんです。自分でも驚いているんです、もっとこの職業に固執しているんだと思いました。」
「いえ、謝らないでください。そうだと思っていました、というのは違うかもしれませんが、しかし変な話では無いんです。私は理解しているつもりです。荒鷲さんが大学という道を切り捨ててまで、追い求めたものは荒鷲さんに求められている声優の姿ではなく、もっと純粋な“声優”というものだということも、そして求められていることが貴方にとってどうしても受け入れがたいことだということも。」
「はい」
はい、と答えるしかなかった。マネージャーの語ったことは正しくその通りであり、普段はできるだけ感情を排して振舞って、一方で恐らく燈火のいっとう理解者である彼女は、いままで全て見抜いた上で彼女なりの優しさで、そのことにはっきりと触れなかったのだ。
そしてだからこそ、彼女らしくない振舞いこそが、今の状況が追い詰められているということをひしひしと伝えてくるのだ。しかしこの話の続きに対する答えを、まだ真剣に考えてもいない燈火には、そんな彼女に語るべき言葉は持ち合わせていなかったし、ただ肯定するだけで精いっぱいだった。
「その上で、敢えて言います。一回受け入れてください、その先に繋げるためにも。私は貴方が声優として活躍する姿を見たい。」
「演技だけではなく、他の全てを売りにするべきです。作品の一部としてではなく、荒鷲燈火という偶像を商品にしてください。」
間が空いた。沈黙という言葉すら合わない程の静寂であった。
「以上です。時間がなくて申し訳ないのですが、どうか明日までに決めてください。この後は一人で考えて頂くべきことです。ですから今日はもうご帰宅頂いて大丈夫です、それでは」
そして話すべきことは全て話し終えたから、といつも通り簡潔に業務内容を伝達し、彼女は席をたった。燈火は目でその後を追いながら、まだ口もつけていない冷めきった缶コーヒーを手で転がしていた。
燈火は自宅までの電車の中、それこそ悄然として手すりに身をもたれていた。突然突き付けられた、今日中に選ばなければならないあまりに重い選択肢を、まるで体内に仕込まれた鉛のように感じながら、鬱々とした気持ちの中で、自身の在り方を考えていた。そしてその選択肢から逃れるように、あの時大学を辞めなければどうだっただろうか、とか、あの時、せめて声優という職業の現状についてもう少し理解していれば、とか、何の意味もなさない過ぎ去った物事の後悔を繰り返し、そしてそんな自分自身に気付いて、更に落ち込むことを繰り返すのだった。
荒鷲燈火は少し裕福な家で生まれ、学歴上は日本の中央値よりは高く、そして表面上は普通に育ってきた女性だった。そんな彼女は幼い時から物語が好きで、幅広く小説を嗜む書痴であった。
特に思春期特有の熱中で図書館に閉じこもり、読み漁り続けた中高時代の読書量はものすごいものがあった。一方でそんな少女が殆ど全員持っているような夢見がちさで、いつか自分も物語に携わるのだと強く思っていた。
その勢いでいくらか文章を書いてみたものの、下手に肥えた彼女の眼は自身のそれを酷く滑稽に捉えた。高校時代の彼女は決して自信かという訳でなかったが、それでも読書家としての自負があった。だからだろう、諦めきれず何度か筆を取っては、その度にショックを受けて試みは頓挫した。
やがて、人並みに大学進学を志した彼女は、受験勉強の忙しさの中で、あれほどに彼女を駆り立てていた本への情熱は次第に燃え盛ることを忘れ、やがて消えしぼんでいき、それとともに暫く小説家という夢は忘れ去っていった。
しかしまた、これまた一通りの受験の成功からくる開放感と自由な大学生という立場が、ある程度は真面目な彼女にして、一部の単位取得が危なくなるほどの情熱を、物語に向けて再燃させた。その情熱は、物語を読むことを超えて、それ自体を体で表現する、すなわち演じるということへと興味の矛先を向けた。物語を目指すことを挫折しても、物語の世界に何らかの形で関わりたかったのだ。
親の知り合いの伝手で興味本位から見学したことをきっかけに市民演劇団に入り、その喜びに身を投じる中で、自然と親しくなった劇団員から勧められた、とあるものが彼女の人生をある意味で狂わせてしまったのだった。それはある有名小説のボイスドラマだった。今や実力派筆頭として名を馳せる豪華な声優陣が参加し、発売から丸6年たった単発作品だというのに、時たま界隈で話題に上るほどの出来だったというそれを聞いて、彼女を背筋を鳥の羽根でそっと撫でられたような奇妙な悪寒を襲ったという。役者が声のみを演じることで、想像の中で役者の姿かたちを超越し、物語のキャラクターを表現する。その純粋な声優というあり方はその作品に出会って以来、彼女を捉えて離さなかった。
かくして何もわからぬまま、大学の途中で声優の道を選んだ彼女だったが、求められていたのは最早タレント(=アイドル声優)と化した“声優”の姿だった。なにせずっと本しか友達がいないという有様で、タレントどころか、他人に生来興味もなかった彼女にとって、そういった仕事はどうしても受け入れられなかった。
所属することになる事務所も、まだ創立したばかりということもあり、役者をやってきた分、演技と読解力が新人ではずば抜けて高く、磨けば光る程度の美貌は持っている彼女なら、演技と舞台や朗読劇でも十分やっていけると採用してしまったのも、それに拍車をかける結果となった。
一方、歌も踊りも過剰なバラエティもNGにして、キャラクターを求道者の如く体現するものとしての声優を目指そうとした、彼女の甘い理想は結局通用しなかった。
マネージャーとの議論の末、出来る限りNGを減らし、なんとか声優という職業に食らいつく中で、あんなにも輝いていた理想が煤けていくことに燈火自身もどこかで気付きつつ、後戻りもできなかった。しばしば訪れる、演じることの機会への狂気じみた喜びが、そのまま執念となって、それでもなお彼女に声優という希望を与えていた。
今や請われればキャラソンもラジオもやるというスタンスだったが、そのどちらも評価は高くなかった。前者はシンプルに曲をあまり聞いてこなかったからだが、後者については致命的な問題があった。
彼女にとって受け入れられない“アイドル声優”の最後の一線は「プライベートの切り売りとビジネスでの他人との交流」の商品化であった。もちろんその理由の一つには声優は裏方に徹すべきという理想があったのだが、それ以上に彼女は自己顕示欲が声優となるにはあまりに低く、病的に自身の“本当の姿“の公開を恐れていたからだった。
物語に囲まれて成長し、そこに対する執着や愛こそをアイデンティティとして生きてきた彼女は、生身の人間の友達を実のところ表面上しか作れなかったという意味で、極めて特殊な人間ではあった。作品への愛こそは語れようが、それはもう視聴者の臨む域を文学的なレベルとして超えていたし、彼等に好まれるような自身のエピソードも持ち合わせていなかった。
今や最も求められているであろう、声優同士の交流については、彼女はそれがプライベートに入ってくることを殊更に拒んだ。そもそも本当の意味で友人を持った経験のない彼女が否応なしに、数少ない出番の中で他の声優と絡む機会があっても、それはビジネスとしても使いたいものでは無かった。
そしてマネージャーの談にもあったように、彼女の声自体が個性派揃いの中で、際立ったものがあるわけではなく、ただ演技だけは秀でていたものの、中々生かす機会も少なかった。声優となってから5年、年齢はまだ23歳だが、今の声優業界では決して若いとはいえない。ギャラの安くなる新人ランクの3年期間も過ぎてからは、より一層、お呼びはかかりにくくなっていった。
だからこそ、マネージャーは今まで出してきたNGを撤廃し、SNSを開始し、自分から他の声優と交流し、アイドル声優としての多様性を受け入れてくれ、ともうずっと提案していたのだった。そして今正しくその岐路に荒鷲燈火は立っていたのである。