第1話 仲深め(現在)編1
肌寒い冬の午後2時。しっとり甘いロイヤルミルクティー。この店の一番人気で写真映えすると最近SNSで注目を集めている。それに、静かにかかるゆったりとしたラヴェルのパヴァーヌ。無理にお洒落しない、落ち着いたトーンの壁紙。肌触りの良いカナぺ。苦手なエアコンじゃなくて、ポカポカと温まるような電気ストーブ。
そんな小さな幸福を詰め合わせたみたいなカフェで、ふとアンティークの木製の黒猫と目が合って、私はそっと小さく息を吐いた。
「どうしたの、悩み事でも。」
目を向けると微笑む彼女の顔があった。耳朶をくすぐるしっとりと濡れたアルト、なのにどこか根本的に私に興味すらないみたいに淡泊で、だからこそ優しい、そんな声。それは私の大好きな音だった。
いつの間に見抜いたんだろう。いつものことだけど、いつも驚かされる。
こちらを伺う彼女の焦げ茶の瞳は穏やかな凪のようで、でもどこか底知れぬ海のようで、私の全てをその中に映し出して、見抜かれている、そんな気さえした。でも、不思議とそれが嫌ではなかった。きっと全てを見抜いても彼女は何も変わらないし、こちらから手を差し伸べない限り、私をそのトロトロした海から掬いだしたりなんてしないだろう。だからどこまでも身を委ねていたくなる。
「写真、取りたくないの。ほら、SNSにアップする用のやつよ。」
年不相応な少しいじけた声を出してしまった。だが、その普段働く羞恥心も彼女相手には沸いてこない。そんないつもと違う声に少し眉毛を上げて、彼女はそっと指を組んだ。
「写真。このカフェのロイヤルミルクティー、それとも君と私の?」
「どちらも。この瞬間の記憶を記録に残したくない、ましてや。」
最後まで言わずに言葉を切る。分かっているでしょう、全部。これは小さな茶番。参加者は二人、即興劇なのに結末は分かり切っている。
「珍しくロマンティストじゃないか。嬉しいな、私との時間をそんな風に思ってくれているなんて。」
「はあ、全く。ちっとも思ってないくせに」
「さてどうかな。多少は嬉しいんだと思うけど。…でも撮るんだろう?」
「ええ、撮るわよ。ばっちり撮って、しっかり加工して、しっかりSNSに上げるわ」
「それは大変だね。そうそう、私の肖像権は気にしなくていいよ」
そう静かに笑って、細い指でコップを絡めとり、彼女はアイスティーを口に含む。お気に入りのダージリンだ。すこしだけ彼女の顔がゆるむのを私は見逃さない。これは心の永久保存版だ。これだけは写真は絶対に取らない。
何時の間にかBGMはニュルンベルクのマイスタージンガーに変わっていた。すこしだけ心が軽くなる、ラヴェルはどこか張りつめていて、美しいけど息が詰まる。
「ありがとう、それじゃあ遠慮なく。」
薄黄色のスカートを押さえつつ腰を上げ、向かい合って座る彼女の傍へと。一二、三歩。少しかがんで顔を近づける。どこか意味ありげな目配せは、少し腹が立ったので無視をして、スマホを掲げ、笑顔を作る。カメラが残酷に今を切り取る。カシャッという無機質なシャッター音は、現実を侵略していく。
画面に浮かんだ私たちのような何かを見ると、喪失感と共に何故か安堵感が浮かんでくる。カメラをとって記録に残すことが癖になってしまって、代わり映えのしないその画を確認するまでは、胸に小さな棘が刺さったみたいな不安感があるのだ。
「うん、綺麗に取れてる、これで良い?」
「もちろん。」
彼女はいつもそうやって、画面を見ずに答える。きっと何も気にしていないのだ。写真を撮られたってどうでもいい。そして、私たちの間柄がどう世間に伝わろうが。それに少し心がざわつく。そうやって、気にもしない彼女だからこそ、一緒にいるのに。そんな矛盾だらけの自分が嫌いだ。
「いつもありがとう。」
「どういたしまして。」
そんなことおくびにも出さないように、傍を離れて元の暗いベージュのカナぺに戻る。スマホをバッグにしまうと、つい独り言が漏れる。
「これは仕事なのかしら。もちろん経費では落ちないけれど」
耳ざとく、彼女がじっとこちらを見つめる。相変わらず見透かしてくるような視線、何故か思わず目を背けてしまう。すると突然動いたような気配があって、振り向くと彼女の顔が近くにあった。驚いて、脈拍が自然と早くなる。
「さあね、でも一つだけ確かなことがある」
そう小さく囁くと、おもむろに手を伸ばし、私の前にポツンと置かれたカップを手に取った。そして再び腰かけると、そのままロイヤルミルクティーに口を付ける。私はどこかあっけに取られて見ていた。
「うん、おいしい。けど中々の甘さだな」
ひとしきり飲んだ後、そう勝手に呟いて、勝手に頷いた。
「ちょっと…」
「お姉さん、ルイボスティーのプチサイズ、お願いできますか」
私の呼びかけを無視して、軽く手を挙げると、女性店員を呼び止める。
承りました、と女性店員が丁寧に礼をして、下がっていく。それ見送って、こちらを振り向いた彼女の顔には、いたずらを成功させた子供みたいな表情が浮かんでいた。
軽く文句の一つでも言ってやろうと思ったのに、悔しいけれど、初めて見るそんな表情につい見とれていた私は、情けない顔をしていたに違いない。でも彼女は表情を変えずに口を開く。
「ごめんごめん。一つ確かなことがあるって言ったよね」
「これからはプライベートだよ、ゆっくり語らおうじゃないか」
「ねえ、私が甘い紅茶、苦手だっていつ気付いたのよ」
帰り道、地面をショートブーツで踏みしめながら、隣を歩くベージュのコートの端を引く。
「へえ、そんなに表情豊かなのに気づかないとでも思ったのかい」
「むかつく、これでも演技派で通ってるんだけど」
「じゃあ演技ではなかったってことだ、相変わらずルイボスティーが大好きなのも」
「そりゃあね」
何か負けた気分だ。でも、あの店のルイボスは絶品だったし、体内に広がった温かさはまだ皮膚から侵食してくる冬を和らげてくれている。思った以上に白く煙った自分の息を見て、そう思ったのでこのことは不問にすることにした。
それはそれとして。
「あのね、やっぱり払うわよ、決して安くはなかったし」
「ミルクティーは私が勝手に飲んでしまったし、ルイボスティーはそのお詫び。またデートしてくれるならそれでいいよ」
「よく言う、自分から誘ってくれたことない癖に」
「たまたま、誘おうと思うといつも君から電話が来るのさ」
「全く。ああいえばこう言うって、貴方のためにあるんじゃない?」
ふふっと二人して小さく笑った。その後はそのまま会話らしい会話もなく、駅までの短い距離を歩く。でもそのどこか心地よい沈黙はあの静かな冬にふさわしかった。
その夜、風呂上り。そっとベッドに腰かけてスマホを開く。今日撮った写真を、できる限りナチュラルに加工する。15分ほど画面を見つめながら、添える文面を考える。
(今日は大好きな親友の柚とティータイムしてきたよ。相変わらず、顔が良い…。でも、それだけじゃなくて一番気兼ねなく話せるので、いつも相談に乗って貰ってます。いつもありがとう、愛してるよ。)
やりすぎだろうか、いや、このくらい踏み込んだ方が喜ばれるはず。文字だけでは固すぎるかなと思ったので、適当な絵文字を入れる。もう一度すべて確認をして、問題なし、送信完了。
明日は今日と違って一日中仕事だ、早めに就寝しなければ。マネージャーからの連絡を確認して、目覚ましを合わせる。スマホを充電器にさして、横になって、目を瞑る。そしてふとあの女は絶対あの更新を見ないし、こんなこともせずに寝ているんだろうな、なんて思ってしまった。相変わらずな自分に少し腹が立って、少し悔しかったので、少し息苦しいけど顔まで布団を被った。