愛の名前
「ラティシアの子どもが欲しい」
ガルドから告げられた言葉は、十数年前とまるで同じ。
けれど立場が違う。
あの時、ラティシアの婚約者であったガルドとの婚約はすでに解消されている。
元々身分の釣り合いの取れない婚約だった。ただ、ガルドの祖父がラティシアの祖母に片思いをしていたらしく、いつか自分の子孫を思い人の子孫と結婚させたいと考えていたらしい。二人の婚約が結ばれた時にはすでに寝たきりであったガルドの祖父だが、家でもっとも力を持っていたのは彼だった。そしてその力を公使して、男爵令嬢のラティシアと公爵令息のガルドの婚約を無理に結んでしまった。
ガルドの家族が何を思っていたかは定かではないが、ラティシアの実家であるスターン家は没落寸前。かの家からの婚約申し込みは正直ありがたいものであった。すぐに契約を結び、二人が六歳の時に婚約者となった。
ーーそしてガルドの祖父がなくなった十歳で婚約は解消された。
ガルドとの仲は悪くなかったと思う。少なくとも彼はラティシアと子孫を残すことに前向きであったと思っていた。それでも一番婚約を望んでいた男は死に、ガルドは正式に宰相補佐となったことで二人の婚約でのマイナス面が大きくなったのだろう。スターン家は今まで支援されていたものを返還しなくてもいいとの条件で婚約解消を受け入れ、家は没落した。婚約が結ばれるまでもずっとギリギリを保っていたのだ。家族全員で荷物をまとめ、別の領へと引っ越した。元々田舎の領地で、畑仕事も領民達と混ざって行っていた。そのため、爵位を失っても特に困ることはなかった。むしろ重くのしかかっていた責任感から解放されて伸び伸びと暮らしていた。
ラティシアは平民になってしばらくして恋人が出来た。
そのまま恋人と結婚し、三人目の子どもが生まれた頃ーー夫が死んだ。月に一度の隣町への買い物から帰る道中、乗っていた馬車が崖に落ちたのだという。悲しさに暮れていたかったが、そうも言っていられない。まだ幼い子どもが三人もいるのだ。ろくに悲しむ時間もなく世話に終われる日々。気付けば日は暮れ、ベッドに倒れた次の瞬間には窓の外から光が差し込む。重い身体を引きずるようにキッチンへ立ち、畑では鍬を振り下ろす。そんな中でも唯一の癒やしといえばたまに運ばれてくる新聞だった。政治欄には大抵元婚約者の活躍が載っていた。夜な夜なそれを眺めながら、白湯を飲むのがラティシアの楽しみだった。その日ばかりはどんなに身体が怠くとも、新聞を開く。やはり初めから彼とは生きる世界が違ったのだろう。自分が婚約者の座を去った後、一体どんな女性が彼の婚約者に収まったのだろうか。きっと自分よりも相応しい相手に違いない。幸せになったかつての婚約者の姿を想像している間は、物語に浸るような感覚でいられた。
そう、思っていたのに。
なぜ彼は今さらになってラティシアの前に現れたのか。
婚約者であった時のようなあどけなさは消え、すっかり大人の男性となったガルドは夜が更け、子ども達が寝静まった時にドアを叩いた。そして寝室とは薄い壁を一枚だけ挟んだリビングで、衝撃的な言葉を吐いた。
「去年生まれた子を譲ってくれ。俺が育てたい」
「養子なら分家からもらえば……」
「ラティシアの子どもが、君の血を引いた子どもが欲しい」
客人用のお茶を出しても手すら付けず、ガルドは言葉を続けた。
「それはあなたのおじいさまが願った婚姻が果たせなかったから?」
「じいさんは関係ない。俺が、ラティシアの子どもが欲しいんだ。本当は生まれた時にすぐ話に来る予定だったんだが、立て込んでいて機会を逃し続けていた。今回ももう一年近く経過してしまった……」
「あなたが私の子どもを欲しがる理由が分からないのだけど」
「ラティシアの血を引いているからだが?」
またそれか。
だがなぜラティシアの血を引く子どもを欲するのか。その理由が分からない。
「なぜ私の血を引く子どもが欲しいの?」
「子どもの頃から、ずっとラティシアの子どもが欲しかったんだ」
「私のことが好きなの?」
「愛している。だがおそらく君が思い描いているものとは異なるだろう」
「どういうこと?」
「俺は一度たりとも君に恋愛感情を抱いたことも、家族愛のようなものを抱いたこともない。愛している。だが俺が欲しいのは今も昔もラティシアの子どもであって、君本人ではないんだ」
「ますます意味が分からないわ」
恋愛感情でも家族愛でもないならその『愛』は一体どんなものなのか。
愛情というものは実に何種類もあり、簡単に語り尽くせないような複雑性を持っている。
しかし自分に向けられた愛の種類が端的に現すことが出来ないと思うとついつい身構えてしまうものである。嫌かと聞かれればそうではない。ただ、すんなりと受け入れるのは危険であると本能が告げていた。
まさか母体として惹かれた、とか?
ラティシアはふと浮かんだ酷く馬鹿らしい考えを払拭するために軽く首を横に振った。
「意味は分からなくてもいい。子どもさえ譲ってくれれば」
「あげるわけないでしょう!」
「稼ぎ頭であった夫を亡くして困っていると聞いたが? 君の両親だって今がやっとの生活を送っているのだろう? 子どもだろうと一人減れば楽になる。それに金の援助はするつもりだ。君の生活が豊かになって、他の男との子どもが出来た時は是非もう一人譲って欲しいくらいだ」
「子どもは物じゃないのよ!?」
「そのくらい知っている。俺が君の子どもをどこに出しても恥ずかしくないように、ラティシアが後悔しないように完璧に育て上げる」
「一体何がしたいの?」
「ラティシアの血を引く子どもを育てたいだけだが?」
「……育ててどうするの」
「成長を見守る。環境は用意するが、決めるのは本人だ。俺が指図するようなものでもない」
本当に訳が分からない。
けれどガルドは至極真面目な顔で「ラティシアの子どもが欲しい」と言葉を繰り返す。
まるでラティシアが聞き分けの悪いことを言っているかのよう。
けれどおかしいのは目の前の男である。
社交界を離れて久しいが、少なくとも十数年前には他人の子どもを育てるなんて文化はなかったはず。養子に取った訳でも親友の子どもを預かっているわけでもない。ただの元婚約者が産んだ子どもだ。子どもを愛する特殊性癖の持ち主かとも頭を過ったが、どうやらそうではないらしい。
案外普通に育ててくれるかもしれない。
けれど訳の分からない男に我が子を預けるなんて真似、出来るはずもない。
「あなたにはあげない。帰ってちょうだい」
立ち上がり、ドアを開く。
外は真っ暗。帰りの足があるかすら分からない知り合いをこんな中に放り出すには少しばかり気が引ける。それでも我が子を奪われるよりはマシだ。もう何年も会っていなかった元婚約者と子どもを天秤にかければどちらが勝つかなんて分かりきっている。ラティシアはさぁ、と首でクイッと外を指した。
「そうか、残念だ」
ガルドはぽつりと呟き、ゆっくりと腰をあげた。
そのままドアの方へと歩き、そしてピタリと足を止めた。
「なに?」
「ラティシア、俺は君を愛していた」
悲しげに眉を下げた男と目が合った瞬間、ラティシアの眉間を弾丸が貫いた。
音すら聞こえず、硝煙の香りが鼻に届いた時にはもう遅い。まさか拳銃を隠し持っていたなんて……。意識は薄れ行き、それでも我が子を守らなければと空へと手を伸ばす。
「取らないで」
口にした言葉のどれほど音になっただろうか。分からない。けれどきっとガルドの心には伝わってはくれないだろうことだけは分かってしまった。
「残念だ。もっと、君の子どもが見たかったのに」
意識が途切れる直前に聞こえたガルドの言葉は子ども達だけが残された家の中でよく響いた。




