004:それは無理ッ!
菜津が何度目かのコーヒーを入れにいったときだった。
「ごゆっくりどうぞー」
「……菜津、さん」
急に名前を呼ばれて、菜津の顔から営業スマイルがふっと消える。そして自分の名を呼んだ客の顔をまじまじと見て、そしてやっと気付いたようで「あ」と目を見開いた。
「――光輝くん! うっわー、びっくりしたあ、久しぶりだねー」
「……僕の前、何度通っても気付かないんですね」
光輝が些か大袈裟に溜息をつくと、菜津は恥ずかしそうに頬を染めて照れくさそうに笑う。その笑顔に光輝がふっと瞳を緩めた。
「ごめん、だってまさか居ると思わなくて」
「ここ来るの久しぶりなのは確かだけど、忘れられてるなんて思ってもみなかったかな」
焦って言い訳を口にする菜津に、悪戯っぽい笑みを浮かべて光輝が重ねてからかった。さすがにその意図に気付いた菜津が唇を尖らせる。
「相変わらず意地が悪いなあ」
「おかげさまで」
そこで目を合わせて菜津と光輝は笑う。共犯者的な笑い、だった。いつもはポーカーフェイスで通っている光輝がそんな風に笑うのは珍しい。菜津はそう思って忍び笑いを漏らす。
「……何?」
「ううん、なんでもないよ」
「何ですか?」
「なんでもないってば」
「菜津さんのそういう言い方は何かある証拠。言ったら?」
「……言ったら怒るもん」
「怒らない」
「それは無理ッ!」
光輝をからかうと決まって菜津にはその二倍以上の返礼が待っていた。負けず嫌いなのかなんなのか、光輝はいつもそうだった。じゃれる仔犬をあしらうように、いつも光輝は余裕の笑顔で菜津を見ていたっけ。
「信用、ないんですね」
「だって、散々からかわれたもの」
「菜津さんが可愛いから」
光輝の表情はどこか楽しげだった。菜津はその言葉の真意を未だに測りかねていて、咄嗟に拗ねることを選択する。
「……まだからかうつもり?」
「からかってなんていませんよ?」
光輝の余裕の笑みは健在だ。眼鏡の奥でニッコリと笑う瞳とまともにぶつかって、菜津は一瞬どきりとして視線を逸らした。