003:いい思い出もあったんだけどね。
今聞いた言葉は自分の妄想なのだろうか? いや、妄想というものは自分の欲望に忠実な筈だから、その限りじゃない。だから鸚鵡返しに問うしか、なかった。
「別れた……?」
「ああ、うん」
椎名の返答はまったくもっていつも通りだ。こうなると、慌てている準の方がどちらかというと滑稽に見えてしまう。
「別れたって……こないだあんなに」
「ま、いろいろあるのよ、大人な事情がね」
にっこりと必殺の笑みを浮かべる椎名のことが、準にはイマイチよくわからない。彼女がいるというのも知らなかったし、彼女がいるのに菜津のことを譲れと言ったり――もしかしてオレ、からかわれてるんだろうか?
「仕方ないよね、七美が俺じゃ嫌だって言うんだし」
「……椎さん、なんかしたの?」
椎名が一瞬、言い澱んだ雰囲気を見せたがすぐに笑みに摩り替わる。
「んー? まあ、いろいろと。……したりしなかったり?」
疑わしげに椎名を見る視線は、菜津のことを非難しているようにも感じる。それが椎名の考え過ぎなのか、もしくは準があまりにも隠さなかったからなのかは、わからない。
「いい思い出もあったんだけどね。最後は見事に嫌われちゃったよ」
慰めの言葉が今の椎名に必要なのかどうか、準は量りかねていた。彼女がいた、ということで菜津への思いが本気ではないんだろうと思ってはいたが、別れたとなればわからない。いや、その前に椎名のこの気楽な言い方は――傷ついているように見えなかった。
「椎さんは……辛くないんすか?」
「うん? 何が?」
「その……彼女と別れたこととか」
「七美が駄目でも、別の子と付き合えるし。あ、なっちゃんとかいいねー」
明らかに挑発を含んでいる椎名のひとことに、準は気付いていたにもかかわらずむっとした顔を隠せない。七美に会ったときの菜津の様子を見ていれば準には菜津の気持ちがわかっていた。もしも今、椎名がフリーになって、そして菜津に声をかけたら、きっと――
「菜津は、駄目っすよ。手、出さないでくださいね」
自分では目いっぱい軽く、冗談交じりで言ったつもりが妙に低く響いていた。椎名はただ肩を竦めただけで何も答えず、それが準には大いに不服だったのだけれど。