010:もう、疲れた。
街中で椎名に会ったのは偶然だった。咄嗟に菜津は椎名の周囲に七美の姿を探している自分に気付き、苦笑する。
「どうかしたの、なっちゃん?」
「いえ、なんでも。――おひとりですか?」
「エエ、おひとりさまです」
茶化した風に椎名が肩を竦めて答えるのに菜津が笑う。
「なっちゃんは? 準と一緒じゃないんだ?」
さらりと、しかし確信犯的に椎名が悪戯っぽく尋ねた質問に菜津は一瞬逡巡を走らせる。既に準が口を割っていることは菜津は知らない。
「ええ、まあ……いつも一緒ってわけじゃないですよ」
「喧嘩でもしたの?」
そこでやっと菜津は椎名の言葉にある種の探りが入っているらしいことに気付き、じっと見上げる。その視線を受けて椎名はおや、と思う。
どうやら感づいたらしい、と、そこまでは嗅ぎ取ったがそれ以上はわからなかった。怒るか誤魔化すか――どっちにしても椎名にとっては反応が予想出来る。
もしかしたら準がなにか言ったのかもしれない、と菜津は考えた。確かにここ一週間の自分たちの様子は傍から見ていてわかるくらいおかしかっただろう。椎名がそれに気付いていてもおかしくはない。
「ええ、喧嘩中なんです」
菜津の回答はある意味、椎名の予想を裏切っていた。
「痴話喧嘩?」
それでもカルい返事を返すことが出来た自分に椎名自身、驚いていた。真正面から肯定されるとは思ってもいなかった。
「なんですか、痴話喧嘩って……そんなんじゃないですってば」
菜津が不服そうに唇を尖らせる。シリアスを回避できたことに椎名はほっとして笑顔をつくった。
「まあまあ、そう怒らないの」
ぽんぽんと菜津の頭を軽く叩くと、擦り寄ってくるような感覚を覚える。どうやら準とのやりとりは菜津に大分ダメージを与えているらしい。
「なんかもう……疲れた」
ぽろりと零れたのは菜津の本音だったに違いない。けれど椎名にはその原因が準とのことにあるのはわかっても、喧嘩そのものがなのか、準との関係がなのかまでは判断できない。
「うん、大丈夫」
何が、と菜津は問わなかった。その前に、菜津が何か言う前に椎名は菜津の頭を抱き寄せていた。
菜津は抵抗しなかった。あたたかいな、と、準に抱きしめられた時に感じた同じことを考えながら椎名の胸で一粒だけ、涙を零した。何のための涙なのかはわからなかった。