009:手、痛いんだけど?
菜津は自分の仕事を終えるとさっさと帰り支度を始めた。ちなみに準は黙々とシンクを洗っていて、菜津のそんな様子に気づくことはなさそうだ。
「お疲れさまでしたー」
そう声をかけたことで準はやっと事を知る。しかし視線は合わず、そそくさと逃げるように行ってしまう菜津。引き止めようにも、既にその姿は消えていた。
店の裏口を抜けると、菜津は次の曲がり角まで走る。何故、というわけではないが準がまさか仕事を放り出して追ってくることはないにしても――怖かったのだ。
しかし角を曲がる寸前で菜津の右手が掴まれる。
「……きゃっ!!」
元々、準が追ってくることを恐れていた菜津が過剰に反応して悲鳴をあげた。身体は明らかにびくりと震えて、その腕を掴んだ光輝は一瞬驚いて手を離しそうになる。
「菜津さん、僕。――菜津さん?」
「あ……光輝、くん……」
振り返った菜津の瞳が光輝を認めて明らかにほっと安堵する。その表情の変化に、光輝は菜津が駆けて来た道を振り返った。誰も怪しそうな人影は見えない。勿論、準の姿も。
「どうかしたんですか? 顔、真っ青」
「ううん、ちょっとびっくりしただけ――」
気が抜けた菜津の足がよろめき、咄嗟に光輝が左腕を菜津の腰に回して支える。引き寄せられてまたも菜津の身体が震えた。
「大丈夫、何もしませんよ。安心して」
右手で菜津の手首を掴まえたまま、光輝は腰に回した左腕を引き寄せた。光輝の顎の下にすっぽりと収まってしまった菜津は戸惑うものの、守られている安心感の方が勝つ。
しかしそれでも十分もその体勢でいると菜津に恥じらいの感情が生まれる。少ないとはいえまだ人通りはそこそこにある。時々、菜津と光輝のことを明らかにカップルを蔑むような目で見ていく通行人もいた。
「光輝くん、あの……」
「何ですか?」
奈津が光輝を見上げたが、光輝の視線は菜津へおりてこない。わざと視線を合わせないようにしているかのように銀色の眼鏡の奥の瞳は遠くを見たままだった。
「あの……手、痛いんだけど……?」
恐る恐る菜津が言うと、さすがにそれは光輝の予想外だったらしい、慌てて両腕を緩める。
「ごめん、僕、つい本気で抱きしめてたから」
それは確かに事実であり、光輝にしてみれば本音ではあったのだろうけれど、菜津をドキリとさせるには充分だった。