1話 秘密裏に交わされる。
「――それで本当に良いんだね?」
「……しつこい。最初からそう言ってんだろ」
カランと、コップの中の氷が音を鳴らした。
結露した水滴が群れをなしてコップの表面を流れ、底縁に小さな水溜まりをつくっている。それは、正面にいる男が無言で考え込んでいる時間の長さを物語っていた。
熟考なのは結構だが、時間は有限であることを知って欲しい。考えたって答えは変わらないのだから。
……いや。
新藤英二は、明らかに疑りの視線を俺に向けている。
「君は、何が狙いなんだい?」
彼は俺の目的を推し量ろうとしているのだろう。その観察に用いた時間だったらしい。
「狙いなんてない。ただ、俺はそう在った方が正しいと思っているだけだ」
「信用に欠けるね……。この取引で僕の弱みを握るつもりでは?」
疑り深い言葉には、さすがの俺でもため息しか出なかった。
「安心していい。俺はお前になんの怨みもない。むしろ、この取引を受けてくれれば感謝したいくらいだ」
それでも視線に混じる猜疑心は変わらない。
「感謝……ね。本来それは僕がすべきものなのだろうけど」
「だからWinWinなんだろ? 深く考えるなよ」
「そうなの、かな」
彼はうつむいて組んだ手のひらをジッと見つめていた。
やがて。
「君は……何故、それを願う?」
最後に新藤が聞いてきた質問。
ここを乗り切れば、取引は上手くいきそうだ。
「俺は、俺自身の事を誰よりも知っている。だから、俺がどう立ち回らなければならないのかも理解している。それに準ずるだけ」
「それは……君自身が望むことを、君自身の手で潰していることにならないのか?」
見上げた瞳には悲哀の色が映っていた。その反射角の裏側に「なぜ自ら不幸を選びとるんだい?」という同情心が見える。
それには……少しだけイラッとする。
「お前が俺を語るな。俺を語っていいのはこの俺だけだ。お前が見る俺に真実なんかない。俺が見る俺にこそ真実があるんだ」
「言ってて恥ずかしくないのかい……それ?」
「自分語りなんて恥ずかしくて当たり前だ。格好つけるのと一緒。端から見れば痛い奴だが、本人は悦に浸れて気持ちがいい」
「そこまで分かってて、なお格好付けるのか……」
「格好つけるから格好いいんだよ。本当に格好いい奴は、格好よくなんて思われやしない」
「今のもだけど……僕は格好いいとは思わなかったけどね」
「……いいんだよ。俺が格好いいと思ってさえいれば」
言葉を濁して『格好悪い』を告げてくる新藤に少しだけ傷ついた。精一杯の虚勢をしてみたが、声は弱くなっていたように思う。
それすらも隠すために彼から視線を外すと、プッと吹き出した音を聞いた。
「少しだけ勿体なく思うよ。君を追放しなければならないことに」
「適材適所って言葉があるだろ? それだ。俺はクラスの歯車には成れない」
「逃げてるだけじゃないのかい? そう、思い込んでいるだけじゃないのかい?」
優しい言葉だと思った。だが、それに俺が当てはまらないことは、既に俺自身が実証済み。
だから、軽く首を振るしかない。
それでも。
「全否定はできないかもな。俺は逃げるしかなかった。そう、思い込むしかなかった。そうすることでしか、俺は俺を保てなかった」
それに反論はない。当然だろう。俺が反論したわけじゃないのだから。
「そうか……分かった」
諦めたような声音。そして新藤は立ち上がった。
「……部活があるからそろそろ僕は戻るよ」
「期待されてる奴は大変だな」
「まぁね。でも……まったく期待されない人に成ろうとは思わないけど」
意味深な視線。俺の事を言っているのだとすぐに分かった。
「それで良い。考え方は人それぞれだろ」
「そうだね。それと……もう一つの約束のことだけど」
「あぁ、何かあったら助けてやればいいんだろ?」
「僕では、どうしようもないからね。彼女……おそらく追放されるだろうし」
「そこまで心配する必要ないと思うがな。俺が助けるよりも、彼女はずっと強いぞ」
「まぁ……それでも心配はするさ」
「いっそのこと告白すれば良いと思うのは俺だけか?」
「無理だね。きっと断られるよ」
「やってみないと分からない」
「分かるさ。たとえ両思いでも、彼女は断る」
「随分と知ったような口を利くんだな」
「知ってるからね、事実」
煽るように新藤を見上げたが、それは簡単に打ち返されてしまった。
「まぁ、俺も断るとは思う」
「思ってたのに提案したのかい?」
「お前がフラレる所を見たかっただけだ」
「最低だね」
「最高だろ」
それから新藤は、頬を弛ませてから軽く手を上げた。俺がそれに応える間もなく、彼は踵を返して立ち去ってしまう。
そんな去り姿の背中さえ、何故だか格好よく見えた。
新藤英二。学内での成績はおそらくトップクラス。弓道部に所属しており、全国大会の出場経験を持つ実力者だ。顔も良いことから女子から人気があり、誰がどうみても勝ち組街道まっしぐらな奴。
だが、そんな彼ですら恋愛という土俵においては、自由に立ち回ることができないらしい。
恋愛のマウントとは常に相手側にある。
惚れた方が負け。惚れられた方の勝ち。
だから、敗者はどうにかして現状を覆そうとする。
そして、多くの場合その努力は報われずに終わった。
まぁ、新藤の場合は終わったわけじゃない。むしろ彼ならば覆せる位置にいる。
ただ、それは端から見た傍観的視点に過ぎず、新藤から見える世界は違うのだろう。
イケメンでも叶わぬ恋はあり、イケメンだからこそ叶わぬ恋がある。少女漫画で、主人公とヒロインは両思いのくせに離れたり近づいたりしているのと似ている。ドラマとか映画になると恋路を邪魔する性格の悪い女は大抵可愛いのがお決まり。心を入れ換えて親密な仲になったりするパターンもあるが、現実はそう甘くない。
そう。現実とはいつも残酷だ。
だからこそ、誰もがそれを隠そうとする。
そうして作られた人間関係を俺は悪いとは思わない。
むしろ、そうやって人間関係を作らねば、生きられない奴だっていた。
性格が悪いからこそ良い奴を演じる。
性根が曲がっているから正しく在ろうとする。
狂気に満ちていたからこそ、常人を気取ろうとするのだ。
真実や本性は残酷だからこそ、誰もが優しく甘い世界を必死で繕う。
それの何が悪い?
例えるなら、顔で負けてる不細工が内面で勝負するのと同じこと。
本質は変えられない。その本質が悪いのなら、変えられる他は正しく在らねばならない。
だから、誰もが正義を繕った。ただ……繕うにはやはり正しくなければならなかった。
そして、正しすぎるが故に、己の悪が浮き彫りになってしまうこともある。
自己嫌悪。俗に言うそれだろう。
だが、嫌悪した部分は紛うことなき己であり、変えることのできない部分でもある。
そんな時、人はどうするのだろうか。
自分に変えられない悪を見つけた時、人はどうするのだろうか。
「考えるだけ無駄だな……」
氷が溶けきったコップを手に取り一口飲む。まだ水は冷たかった。
俺の答えは既に出ていた。
悪は排除しなければならない。
故に。
俺は、俺自身を断罪することにしたのだ。