快楽主義
互いの主張の食い違い。どちらも悪ではない。
そもそも「悪」という概念は確証不確実な言葉の羅列である。
人は何かを求める概念体。己の基準を元に常得る為に命を消費する。
人は何かを与える概念体。他人の基準を想像し常与えるために命を削る。
人は何かを奪う概念体。自己中心理論を鵜呑みにし常己のために運動する。
人は何かを捧げる概念体。他人の支柱となることを夢見て常他人の足場となる。
人は何かに頼る概念体。己の弱さから思考を遠ざける為今日も祈りを捧げる。
人は何かを押し付ける概念体。己の行動を正当化するために、今日も名もないものを踏みにじる。
人とは何かに頼られる概念体。己の特異性を把握し今日も力無き存在に力を与える。
人は考える概念体。生存競争の王者であるために今日も無二の特性を惜しみ無く活用する。
人は考えない概念体。エネルギーの浪費を防ぐため今日もスリープモード。
何を快楽とするか、苦痛とするか。個々により全て異なる。
何を良しとするか、悪しとするか。基準は個々を構成する全ての要素。
何を生物とするか、屍とするか。同一は存在しない。
何を自由とするか、束縛とするか。感情、理性をfullに用い
何を持って「何」とするか、自分ルールを確定する。
快楽主義を語るには、そこからだ。
物差しどうしを見比べあう事は、例え単位が違ったとしてもなんとなく出来る。
物差しを持っていなかったら、見比べることすら出来ない。