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「今すぐここから立ち去りなさい、ソ連人。ここ最近、お遊びが過ぎているんではないんですか?」
ロシア人は私とエリカさんの間を通り抜け、ソ連人の前に立った。混乱した私にエリカさんが「大丈夫、私の知ってる人だから」と耳打ちしてくれた。
「どういう人なんですか?」
「私とお兄と同じで、JRに潜り込んでるロシアのスパイ」
ソ連人は私達にも聞こえるくらいの大きな音で舌打ちをし、手に抱きかかえていた黒いマリモを右肩に駆けていたショルダーバックの中に詰め込んだ。
「さすがに街中であなたとやり合うつもりはありません。こうしてマリモを回収することができたので、ひとまず目標は達成しましたしね。それに、もうじきこそこそと端っこで動き回る必要もなくなります」
「どういう意味ですか?」
「それは私も知りません。ただそうなるということを上から聞かされているだけなので」
ソ連人は不敵な笑みを浮かべ、ロシア人と、彼の後ろにいる私とエリカさんを見比べた。
「あなたたちの秘密兵器まで、我々はあと少しでたどり着くことができる。このことを忘れないように」
ソ連人はそう言うと、踵を返し、人であふれかえる新宿の大通りへと去っていく。彼の背中には敗者特有の惨めさはなく、むしろ何かが起こる不吉さが帯びているような気がした。
ソ連人が路地を曲がり、その姿が完全に見えなくなってようやく、ロシア人は小さいため息を付きながら私達の方へと振り返った。「助かったわ」とお礼を言いながら、エリカさんは手を差し出し、二人は固い握手を交わした。
「あなたがひとみさんですね。お噂はかねがね伺っております」
どうして私の名前を知っているんだろうと訝りながらも、私もロシア人と握手を交わす。ロシア人の手は私の手よりも一回り大きく、あちこちが骨ばっていた。ロシア人は私との握手が済むと、エリカさんに対して、ここ最近のマリモ刈りについて尋ねる。エリカさんは、マリモとソ連人の数が急激に増えてきていることを簡単に説明する。ロシア人はエリカさんの説明を難しそうな表情で聞き続け、説明が終わると、ぽつりと小さな声で「やはり噂は本当なのかもしれませんね」とつぶやいた。
「それってどういうこと?」
エリカさんがロシア人に聞く。ロシア人はあくまで噂段階だと前置きをした上で言葉を続ける。
「我々がこの東京に隠してある秘密兵器の存在をソ連側に嗅ぎ付けられたのかもしれません」
秘密兵器。映画の世界でしか聞いたことのない単語に私の胸が不安ではざわつく。
「怖いですね」
私は反射的に自分の心境を言葉に出す。するとロシア人は快活に笑いながら、「嗅ぎつけられたとしても、やつらの好きにはさせませんよ」と話す。それでも私が不安な表情を崩さないのを見て取ると、ロシア人はぽんと私の肩をたたく。
「大丈夫です、ひとみさん。我々には、将軍がついていますから」
将軍? 私が聞き返しても、ロシア人は何も言わず、ただ優しく微笑み返すだけだった。