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2-9

「ドイツのスパイ?」


 エリカさんは人差し指を唇に当て、ウィンクで目配せしてくる。私は慌てて口を手で押さえ、周囲をキョロキョロと見渡した。幸いに、私たちの会話を聞いているような人間はいない。それでも私は先程の会話よりもずっとボリュームを落として尋ね返す。


「それって、秘密にしとかなくていいんですか?」

「何言ってるの? 秘密にしとかなくちゃ駄目に決まってるじゃん。私がスパイだってバレたら、警察に逮捕されちゃうんだよ?」


 エリカさんは呆れ顔で言い返す。私は当たり前のことを聞いてしまったと少しだけ気恥ずかしくなってしまい、ごまかしのための乾いた笑いを浮かべた。同じタイミングで向かいのベンチに座っていた女子高生二人組が大きな笑い声を上げ、自分が笑われたのかと思って身体をびくりとさせてしまう。


「でも、どうしてスパイなのにJRで働いているんですか? ほら、映画とかだとお役人さんとか警察とかによく化けているじゃないですか?」

「まぁ、いろいろとこちらにも事情があるんだけどさ」


 エリカさんはさらに声を潜め、ぐいっと自分の顔を私に近づけてくる。エリカさんがつけているシトラスオレンジの香水の匂いが私の鼻をくすぐった。


「正直、ドイツとしてはJRにそれほど関心を持っているわけじゃないの。だけどね。なぜか昨日もちょっとだけ出てきたロシアって国がJRにすっごい興味を持ってるの。うちのドイツとロシアは同盟国で、わかりやすく言えばすごく仲がいい。だから、上の説明では、ロシアに協力するために私たちドイツ人スパイを送り込んでるらしいの。なんでロシアがJRに興味津々なのかは知らないけどね」

「それって、一体どういう……」

「おっと、これ以上は駄目駄目。もう時間だしね」


 そう言いいながらエリカさんはベンチから立ち上がった。お尻についたすすをはたき落としながら、「お兄と合流しよっか」と笑顔で提案する。私も同じように立ち上がり、エリカさんの後ろを歩いていく。


 エリカさんのお兄さんとは池袋東口付近で待ち合わせているらしい。人の波に流されるようにして、私達は池袋駅へと進んでいく。東口前の信号が赤から青に変わり、こちら側と向こう側から一斉にそれぞれの方向へ歩きだしていく。


「お兄さん、大丈夫なんですかね?」

「え、何が?」


 信号の中ほどで私が尋ねると、エリカさんは振り返って大きめの声で問い返してくる。


「お兄さん! さっきエリカさんが言ってたように、ソ連側の人間に捕まったりしてないですかね!?」


 信号を渡りきり、エリカさんが立ち止まる。少しだけ思案した後、「大丈夫じゃない」とあっけらんかんとした口調で答えた。


「なんだかんだ言って、私よりも長くこの仕事はやってるし。いくらあのお兄といっても、そんなへましないでしょ。でもね、最初のうちは私が付いてるから良いけどさ、ひとみは本当に気をつけてよ。ひとみが車に紐付けられて、街なかを引きずり回されるのなんて見たくないもの」


 私はエリカさんの言葉に強く頷く。私の真剣な眼差しに満足したのか、エリカさんは安堵の表情を浮かべた。エリカさんは右耳に髪をかけ、駅の入口から池袋の街並みを振り返った。


「私はドイツ人のスパイだけどさ。この街はすごい好きだよ。だからさ、仕事だっていうのもあるけど、やっぱりソ連なんかに荒らされたくないって思ってるんだ。ひとみにもわかってほしいな、この気持ち」


 エリカさんの何時になく真剣な口調に、私は掛ける言葉が思いつかなかった。それでも、エリカさんのその言葉が本心から出ていることは伝わってくる。エリカさんはお茶目で口が軽い人だけど、それだけ純粋な気持ちを持っている。短い付き合いだけど、それだけは確かだった。


 私はエリカさんと同じ方向を眺めた。そびえ立つ高層ビルに、行き交う人々の群れ。改めてこの世界にはこんなに多くの人間がいることに驚かされる。信号が点滅し、青から赤に変わる。それと同時に、私達の目の前の大通りを、エリカさんのお兄さんを一本の紐でつないだ車が一台、ゆっくりとしたスピードで走り抜けていった。

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