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「すみません……。玄関のかぎがかかっていたもので」
どうしてそんなとこから? と私に尋ねられたJR職員の男がバツの悪そうな表情でそう答えた。男はラムネのように爽やかな青をした夏空を背景に、三階にある私の部屋のベランダのへりに寄り掛かるような格好で立っていた。ブルーのストライブが入った半袖のワイシャツに、緑色のJRというアップリケが縫い付けられた駅帽という出で立ちで、左手には網に入れられた立派なスイカを携えていた。じりじりと肌を焼く真夏の日差しを受け、額と首元には玉のような汗が浮かんでいた。
「厚かましいお願いだとは重々承知なんですが、できれば部屋の中に入れさせてもらえませんか? このままだと暑さでぶっ倒れそうなんです」
「はあ、どうぞ」
私はベランダの扉を開け、男を部屋の中に招き入れる。男は律儀に靴を脱ぎ、平身低頭のままあがりこむ。男はワイシャツの胸元をぱたぱたとさせながらさっきまで私が座っていた座布団の上に何の断りもなしに座り込んだ。場所を奪われた私は少しだけ逡巡した後、すぐそばのベッドの縁に腰かけ、男と向かい合った。
「今日はJRを代表して、この家にお邪魔させていただきました。私、浜岡と申します」
男はかしこまった口調でそう切り出すと、胸元のポケットから名刺を取り出し、私に手渡そうとした。男は少しだけ身体を揺り動かし、すぐそばの床に直置きされたスイカにあたる。スイカはゆっくりと転がり、座卓の四脚の一脚にぶつかって止まった。
私は受け取った名刺を確認する。表にはJRという緑色のロゴと、『浜岡竹広』という名前が極控えめに印刷されていた。裏返してみると、JR本社の住所、電話番号が記されている。
「実はですね。佐々木さまが、我がJR鉄道の約百万人目の利用者に該当されたのです。そのため、今回は記念品の贈呈を行うために、こうして直々にご訪問させていただいた次第です。いやぁ、私が言うのも変ではありますが、言葉では言い表せないくらいにとんでもなくラッキーですよ。おめでとうございます」
浜岡さんは満面の笑みを浮かべたまま、パチパチと拍手する。クーラーの駆動音以外、何の音もしない閉め切った室内で、浜岡さんの拍手の音が虚ろに響き渡る。
「あの」
「はい、なんでしょう?」
「私は基本的に地下鉄を利用していて、ここ数ヶ月くらいJRは利用していないんですけど………」
「ああ、そのことですか。大丈夫ですよ、別に」
浜岡さんは私の懸念を軽い調子であしらいながら、名刺が入れてあった場所と同じ場所に手を突っ込み、中から一枚の切符を取り出した。浜岡さんはその切符を目の前の座卓に置く。私がこれは何かと尋ねると、浜岡さんはこれが利用者百万人突破の記念品だと説明した。
私は半信半疑のまま手に取って、よくよくその切符を観察してみた。裏面は黒く、磁気加工がされている。表面はパステルカラーで薄いJRの文字が印字されている。ただ普段目にするような切符とは違い、これには行先も値段も書かれていない。私はわけがわからぬまま、浜岡さんをちらりと見ると、彼は好奇心に導かれるまま、私の部屋の様子を隅々まで舐めるように観察している最中だった。しかし、私の非難めいた視線にハッと気が付くと、浜岡さんは顔を赤らめ、「なにぶん、女性のお宅に伺うことが少ないもので………」と申し訳なさそうな表情で弁解した。
「これは何なんですか?」
「これは記念用に作られた特別切符です。使おうと思えば、ちゃんと使えるので、大事に取っといてください。あ、そうだ。あと、副賞として、このスイカも差し上げます。JRが直接運営しているスイカ畑で採れたものなんです。結構、糖度が高くておいしいですよ」
浜岡さんは床に置きっぱなしにしていたスイカを座卓の上に乗せる。サッカーボールほどの大きさで、鮮やかな緑色をした表面に黒の縞模様が等間隔でついている。試しにこんこんと叩いてみると、ぽんぽんと弾むような音が返ってきた。
浜岡さんは私とスイカを見比べ、愛想笑いを浮かべた。そして、おもむろに腕時計を確認すると、これで用事は済んだので、これでお暇させていただきますと申し出た。私はそうですかとだけ返事をし、ベランダに置いていた靴を手に取り玄関へと歩いて行く浜岡さんを目で見送った。
「お邪魔しました」
浜岡さんの声が玄関の方向から聞こえてきて、すぐさま扉が閉まる音がする。私は何気なしに窓の外を覗いてみる。そこには、一点の雲のなく、先程よりもずっとずっと青く澄んだ夏空が広がっていた。