その9
血の繋がりがなくても、そこには必死に家族を守ろうとする次郎兵衛の姿がある。おうめは、そんな次郎兵衛に意を決して何かを言い出そうとしていた。
「あ、あの……。次郎兵衛さん」
「おうめ、どうしたんだ」
おうめは、緊張のあまりなかなか言い出すことができない。それでも、次郎兵衛の前で何とか自分の意思を伝えようと試みた。
「次郎兵衛さん……。あ、あたしとどうか結婚してください!」
結婚という2文字の言葉に、次郎兵衛は思わず表情が固まった。天涯孤独の身である次郎兵衛にとって、それは安住の地を得るという意味である。
しかし、次郎兵衛は悪人たちから常に命を狙われる立場でもある。ここに留まれば、おうめや並之助に再び危険な目に遭わせるかもしれないという危惧が次郎兵衛の頭によぎる。
そのとき、並之助が次郎兵衛の体にしがみついてきた。
「おじちゃ、ぼくといっしょに暮らそうよ! いろんなことを教えてほしいの」
並之助の好奇心旺盛なその言葉に、次郎兵衛は心を揺さぶられている。
おうめと並之助の願いを受け入れるかどうか、次郎兵衛はその場で即答することができなかった。次郎兵衛は、とりあえず一晩考えたうえで自分なりの回答を出そうと心に決めた。
「おうめも並之助もぐっすりと眠っているようだ。あれだけの極限状態にいれば、相当疲れが出ていただろうし……」
次郎兵衛は2人が寝ているのを見届けると、自らも体を休めようと布団の中に入った。
次の日の朝、次郎兵衛はいつものようにひぐらしの鳴き声で目を覚ました。昨日とはうって変わって、いつも通りの日常に戻っていることに次郎兵衛は安堵している。
次郎兵衛が振り向くと、隣で寝ていた並之助も布団から起き上がろうとしていた。しかし、並之助の様子に次郎兵衛はどうしても気になってしようがない。
並之助は恥ずかしそうな顔つきを見せながら、布団の中でモジモジしているようである。
これを見た次郎兵衛は、並之助の掛け布団をすぐにめくった。そこには、見事にやってしまった並之助のでっかいおねしょが描かれていた。
「おじちゃ、でっかいおねしょをしちゃったよ。えへへ」
「並之助、3日ぶりにおねしょをしちゃったんだ。こりゃあすごいなあ」
並之助のおねしょは、お布団だけでなく腹掛けの下のほうもぬれるほどの見事なものである。
でも、並之助は前を向いて堂々とした表情で次郎兵衛を見つめている。その姿は、すぐしょんぼりしていた以前の姿からは考えられないものである。
「おねしょなんて、大きくなれば完全に治るさ。一昨日と昨日と、2日続けておねしょしなかったのは立派だぞ」
「おじちゃ、ありがとう! おねしょしないようにがんばるからね」
自信がついた並之助は、おねしょで大失敗しても照れた表情で笑顔を見せている。次郎兵衛も、そんな並之助の成長に目を細めている。
そこへ、土間で朝ご飯の準備をしていたおうめが板の間へやってきた。おうめは、おねしょしちゃった並之助の頭をやさしくなでている。
「あれだけ恐ろしかったならず者たちがいなくなったんだもの。すっかり安心しちゃったんだね」
ならず者がいなくなって、おうめと並之助はすっかり安心するようになった。だからこそ、次郎兵衛はいっしょに暮らしてほしいという2人の気持ちが痛いほど分かる。
それでも、次郎兵衛にはある思いが心の中でよぎっている。
「わしがここにいることで、かえって2人に危害が及んだら……」
次郎兵衛はある決心を固めると、おうめと並之助がいる物干しのところへやってきた。
「おうめ、並之助……。ごめん!」
「次郎兵衛さん、いきなり言い出してどうしたの?」
「残念だけど、わしはここを離れて再び旅に出ることに……」
いきなり口にした次郎兵衛の言葉に、おうめも並之助も驚きを隠せない。これを聞いた並之助は、次郎兵衛にへばりついては離れようとはしなかった。
「おじちゃ、いっしょに暮らしたいのに……。どうして出て行っちゃうの?」
次郎兵衛は、涙ながらに訴えかける並之助を見ながら困惑している。並之助にとって、親身に励ました次郎兵衛がいなくなるのは寂しいものである。
そんな中、おうめは次郎兵衛の言葉を聞いて冷静に受け止めていた。結婚の申し出に即答しなかった時点で、おうめは次郎兵衛との別れをうすうすと感じていたからである。
「次郎兵衛さんがいなくなるのは寂しいけど、これからは並之助と力を合わせて暮らしていきます」
おうめの率直な思いに、並之助もその意味をすぐに理解した。そして、並之助は涙を流しながら次郎兵衛と別れることを受け入れた。
「おじちゃ、ぼくのことを絶対忘れないでよ」
「ああ、分かった。並之助のことはちゃんと覚えておくからな」
物干しには、並之助がやってしまったおねしょ布団が干されている。しかし、そこにいる並之助はしょんぼりとした様子は一切見せていない。
次郎兵衛は、並之助の成長ぶりをこの目で改めて感じた。もう自分がいなくても、並之助は立派な少年としておうめを支えてくれると確信している。
並之助は、もう二度と会えないその相手に右手を差し出した。これを見た次郎兵衛は、並之助とお互いに固い握手を交わした。
「ぼくのことを忘れたらダメだよ!」
「おおっ! それって、もしかして……」
「えへへ……。おねしょが治るように、ぼくもがんばるからね!」
並之助が左手で振っているのは、朝のおねしょでぬれている腹掛けである。堂々としたその表情は、初めて並之助に会ったときとは比べ物にならないほどの成長ぶりである。
「次郎兵衛さん、いままで本当にありがとうね」
おうめも、次郎兵衛との別れを惜しみながら手を振っている。それは、並之助と2人で強く生きることへの決意の表れである。
次郎兵衛は2人を見届けながら、静かにその家から離れて行った。決して孤独を好まない次郎兵衛であるが、安住の地を求めるのは夢のまた夢である。
そんな現実を受け止めた次郎兵衛は、再び自分の足で終わりなき旅を続けるのであった。




