その7
「並之助、今日もため池で泳ぎの特訓をしようか」
「うん! おじちゃの前で長く泳げるようにがんばるよ!」
次郎兵衛の誘いに、並之助は新しい腹掛けをつけて家から出てきた。並之助は、おもらしでぬれた腹掛けを手渡そうとおうめのところへ行った。
「ため池へ行くときには、次郎兵衛さんの言うことを聞かないといけないよ」
ならず者がはびこっている中、おうめは並之助が出歩くことへの不安が拭いきれない。しばらくの間は、次郎兵衛と2人でため池へ行くのが身のためである。
「おっかあ、行ってくるからね!」
最初は気乗りしなかった並之助も、泳げるようになってからはため池へ行くのが待ち遠しそうである。次郎兵衛も、並之助の成長ぶりをいつも見るのが日課となっている。
しかし、そんあ日常に影を落とすならず者たちの存在を次郎兵衛は決して忘れることはない。次郎兵衛は、おうめと並之助をどうにかして守りたいと考えている。
そして、2人がため池に行く途中にある山道をまたごうとしたときのことである。
次郎兵衛と並之助の周りに、ならず者たちの一団がいきなり取り囲んできた。ならず者たちは、目の前にいる2匹の獲物をにらみつけている。
「どういう意味だ」
「おめえをこの場で血祭りに上げるためさ。そこにいる子供もいっしょにな!」
周りの敵は、すぐにでも次郎兵衛を始末しようと一斉に刀を抜いた。これを見た次郎兵衛は、右腰の刀に手を置いた。
「並之助、わしから絶対に離れるんじゃないぞ」
「おじちゃ、分かった」
ならず者が次々と襲いかかると、次郎兵衛は左手で刀を抜いては即座に斬り倒した。一瞬の斬り技に、ならず者たちはその場で息絶えながら倒れていった。
その後も、次郎兵衛は並之助を守りながらならず者たちを次々と倒した。しかし、次々と襲ってくる敵に次郎兵衛は手こずっていた。
「どんなに倒しても、ならず者が次々とやってくるとは……」
敵の攻撃は、正面からだけとは限らない。背後からの敵の襲撃も念頭に置くのは、これまでの経験でよくわかっているはずである。
そのとき、後方から刀を振り下ろそうとするならず者の姿があった。
この様子を目にした並之助は、足元にあった石を敵に向かって投げつけた。投げつけた石は、ならず者の刀を持つ手に当たった。
相手の気配に気づいた次郎兵衛は、振り向きざまにその敵を斬り倒した。左利きによる刀さばきに、ならず者たちは次々と息絶えることとなった。
「どうした、わしとまだやる気か」
「ぐぬぬ……。このままただで済むとは思うなよ」
ならず者たちは捨てゼリフを吐き捨てると、一目散にその場から去って行った。
次郎兵衛は、危ういところを助けてくれた並之助の頭をなでた。
「並之助、ならず者たちの動きによく気がついたのか」
「悪いやつを恐がってなんかいられないよ!」
並之助は、敵の動きを止めようと勇気を出したことでさらに自信を深めた。次郎兵衛も、そんな並之助の顔つきを見ながら感心している。
しかし、次郎兵衛は傍若無人な振る舞いを繰り返すならず者たちの動きがどうしても気になっていた。
ならず者たちの目的を考えると、おうめや並之助がいきなり敵に襲われてもおかしくない。
「このままでは、並之助とおうめが危ない……」
次郎兵衛は、並之助が泳ぎの練習をするのを見ながら考え込んでいた。そのとき、並之助の声が次郎兵衛の耳に入った。
「おじちゃ、ぼくが泳いでいるところをちゃんと見たの?」
「あっ、ごめんごめん。ちょっと考えごとをしていたから……」
「もうっ、おじちゃったら! 今度はちゃんと見てよ!」
並之助は練習の成果を見せようと、少しでも長い距離を目指して泳いでいる。
泳ぐことすらおびえていた並之助が、いまや自分の力で泳げるようになったことに次郎兵衛は目を細めている。
「この平穏な日常が、ならず者たちに奪われることがあってはならない」
次郎兵衛は、心の中でそう考えずにはいられなかった。周りに敵がいなくても、静かに忍び寄る影はいやな予感を感じさせるものである。
そのいやな予感がまさか現実となるとは、このときはまだ知る由もなかった。
翌日の朝、いつものようにひぐらしの鳴き声で次郎兵衛は目を覚ました。
次郎兵衛は並之助の様子を見ようと振り向いたが、そこには掛け布団がめくられたままで誰もいなかった。
並之助の布団がぬれていないのを確認した次郎兵衛だが、聞き慣れた声が聞こえてこないことに違和感を感じすにはいられなかった。
「並之助は、引戸を開けて外のほうへ出たのかな。でも、いつもならおうめの声も聞こえるはずなのに……」
次郎兵衛が辺りを見渡すと、引戸が開いていることに気づいた。もしかしたら、2人とも農作業なりお手伝いなりしているのではと考えながら外へ出た。
すると、近くの木の上から放たれた矢がいきなり家の壁に突き刺さった。その矢には、誰かが書いた文書らしきものがあった。
次郎兵衛は矢を引き抜いて文書を開くと、そこには恐れていたことが権蔵によって記されていた。それは、おうめと並之助を連れ去ったという内容である。
「おうめと並之助を連れ去っただと……。やはり、あのならず者の連中か」
次郎兵衛は、おうめの家からさらに奥のほうへ急いで駆け出した。しばらく行くと、次郎兵衛の目に入ってきたのは文書で記された1つの家屋である。
その場所は、明らかに廃屋といえる風貌である。外観を見てもかなりボロボロであり、いつ崩れてもおかしくない状態である。
そのとき、廃屋の中から子供の泣き叫ぶ声が聞こえてきた。その声を聞くと、次郎兵衛はすぐさまその廃屋の中へ入って行った。
そこで目にしたのは、権蔵と熊六に捕まって人質となっているおうめと並之助の姿である。
ならず者の強面の顔におびえるおうめに、大声で泣き続ける並之助……。
2人の姿をを見た次郎兵衛は、怒りに震えながら権蔵たちをにらみつけた。すると、権蔵たちは冷徹な言葉で次郎兵衛に現実を突きつけた。
「おう! 左利きの次郎兵衛よ、ここにいる女と子供がどうなってもいいのかな?」