後編
それから、約1か月後のことである。
家の土間では、次郎兵衛がふんどし姿で火おこしを行っている。次郎兵衛の体中が汗にまみれても、火おこしを続けるのには理由がある。
「おみさがあれだけ苦しんでいることを考えれば、わしのやっていることは大したことではない」
次郎兵衛は、鍋に入っているお湯を自分の手で確認している。温めのお湯であることを確認すると、すぐにたらいの中へお湯を移した。
「早く板の間へ持って行かないといけないな。いつ赤ちゃんが産まれてもおかしくないし」
次郎兵衛がお湯を沸かしていたのは、おみさの出産に備えて準備をするためである。
板の間へたらいを持って上がると、そこには力綱を握りながらいきんでいるおみさの姿があった。
「ううう~んっ、ううううううう~んっ……」
おみさが元気な赤ちゃんを産もうと必死になっているのを見て、次郎兵衛は目の前で正座しながら励まし続けている。
その間、太吉はおみさに代わって小助のお世話をしているところである。
小助は仰向けの状態から自分で立とうとするが、なかなかうまく立つことができない。それでも、太吉は小助のがんばる姿を見守り続けている。
「もう少ししたら、小助は兄ちゃんになるだろうし」
小助が何度も努力を続ける様子に、次郎兵衛は柔和な顔つきで目を細めている。
すると、おみさのいきみ声が一層大きくなった。次郎兵衛は、赤ちゃんを産み落とそうとするおみさを必死に励ました。
「おみさ、大丈夫か! あと少しの辛抱だ!」
「うううう~んっ、うううう~んっ、ううううううううううう~んっ!」
おみさは力綱を強く握りながら、自ら出せる最後の力を振り絞った。その瞬間、赤ちゃんの大きな泣き声が次郎兵衛の耳に入ってきた。
「おぎゃあ! おぎゃあ! おぎゃあっ!」
生まれてきた赤ちゃんは、かわいい顔つきの元気な男の子である。次郎兵衛は、赤ちゃんを産んだおみさにねぎらいの言葉をかけた。
「おみさ、よくがんばってくれた。元気な赤ちゃんを産んでくれて本当にありがとう」
次郎兵衛からの言葉を聞いて、おみさは無事に赤ちゃんが産まれたことに改めて実感した。
「さあ、産湯につかって体を洗おうな」
次郎兵衛は、生まれたばかりの赤ちゃんをたらいの中に入れた。言葉を発しなくても、赤ちゃんは次郎兵衛のやさしさを感じているようである。
その様子をみているおみさは、無事に生まれた赤ちゃんにやさしい笑みを浮かべながら見つめている。
「キャッキャッ、キャッキャッキャッ」
次郎兵衛は、産湯につかった赤ちゃんをやさしく抱き上げることにした。かわいい赤ちゃんを見ようと持ち上げたそのとき、次郎兵衛に思わぬ災難に見舞われることになった。
「うわっ! いきなりおしっこを……」
赤ちゃんは、初めてのおしっこを次郎兵衛の顔面に向かって命中し続けている。いきなりの出来事に、さすがの次郎兵衛もタジタジである。
そんな次郎兵衛を横目に、赤ちゃんは満面の笑顔を見せながら手足を動かしている。
新たな家族が加わったことは、次郎兵衛にとって大黒柱の重責を一層担う立場となった。漁の仕事は、父親として一家の生活を支える生命線といえるものである。
「家族を養うのは大変だが、これまでのことを考えれば……」
次郎兵衛は、気の抜けない戦いが続いた終わりなき旅のことを思い返した。そうした中で、ようやくつかんだ家族の温かみを噛みしめていた。
これから先、再び刀を握るかどうかは定かではない。次郎兵衛は、自ら見つけた安住の地で1人の漁民として家族を支えようと奮闘している。
「太吉、そろそろ漁に出るぞ」
「父ちゃん、ちょっと待ってよ」
ふんどし姿は、次郎兵衛が漁民として生きていくという決意の表れである。太吉とともに木舟に乗り込むと、今日も漁に勤しもうと波打ち際から沖合へ向かうのであった。




