中編
次郎兵衛の新たな住処は、おみさや太吉が暮らす砂浜に面した小さな漁家である。その漁家に入ると、そこにはおみさが大きなお腹をやさしくさすりながら座っている。
「次郎兵衛さんも太吉も、いつも魚を獲ってきてくれてありがとうね」
「そんなに気を遣わなくても……。わしらは漁をするのが仕事なんだし」
おみさの大きなお腹の中には、次郎兵衛との間にできた新しい命が宿っている。
次郎兵衛は、右腰につけたスカリの中から真鯛を取り出した。走島の沖合は、真鯛が獲れる良質の漁場である。こうして獲れた魚は、様々な用途でそれぞれの家々にて食している。
「おみさ、今日も真鯛を獲ってきたぞ! これでも食べて少しでも栄養をつけないといけないぞ」
身重であるおみさに無理をさせることはできない。次郎兵衛は、スカリの中に真鯛を戻してから土間へ下りようとするところである。
そのとき、おみさのそばで昼寝をしていた小助が目を覚ました。小助は布団の中でモジモジしながら、涙が出るのを必死にこらえている。
「小助、そんなにしょんぼりしてどうしたんだ」
「う、うううううっ……」
次郎兵衛が初めて小助に会ったとき、小助はまだ生まれたばかりの赤ちゃんであった。それと比べると、かなり成長していることが小助の外見から見てもよく分かる。
それでも、数え年でまだ2歳であるだけに赤ちゃんっぽいところが残るのは当たり前である。
次郎兵衛は、小助がモジモジしているのが気になったので掛け布団をすぐにめくった。すると、小助のお布団には大きなおねしょの地図が見事に描かれていた。
小助は涙を流しながら、腹掛けの下を両手で押さえている。そんな小助を励ますのも、次郎兵衛の役割である。
「新しい腹掛けを持ってきたよ!」
「太吉、気が利いてくれて本当にありがとうな」
次郎兵衛は小助に新しい腹掛けをつけると、おねしょしたばかりの小助の腹掛けを物干しに干しに行った。
小助のおねしょ布団も続けて干すと、次郎兵衛はその場で物干しを眺めている。
「こないだまでは赤ちゃんだったのに、小助の成長は本当に早いなあ」
次郎兵衛はお布団に描いたおねしょを見ながら、小助が成長していることに目を細めている。
「さて、そろそろ晩ご飯の支度をしないと」
土間へ戻った次郎兵衛は、焚き口に薪を入れて火おこしを行っている。これから、真鯛の塩焼きと澄まし汁を作るためである。もちろん、真鯛をさばくときの利き手が左手であることは言うまでもない。
「おみさが元気な赤ちゃんを産むためにも、家事もわしが一手に担わないといけないな」
次郎兵衛は真鯛を包丁でさばきながら、村上家当主の義直に再び会ったときのことを思い出した。それは、次郎兵衛自らが戦いから身を引くことを決断するきっかけとなった出来事である。
次郎兵衛は、義直の屋敷にある大きな部屋へ入って正座している。義直は、次郎兵衛による海賊撃退の報を耳にしたとあって柔和な表情で口を開いた。
「この島で安心して漁ができるようになったのは、そなたが海賊連中を倒したおかげじゃ」
「義直様からのありがたい言葉、確かに頂戴いたしました」
次郎兵衛は義直からの言葉を聞いている間も、決して奢りを見せない謙虚な姿勢を保ち続けている。
すると、義直の口から思いがけない言葉を掛けてきた。
「わしとしては、そなたを側近として登用したいと考えている。これからも、この島の平穏を保つためにはそなたの力が必要じゃ」
今まで流れ者として旅を続けてきた次郎兵衛にとって、この話は願ってもないことである。
しかし、次郎兵衛は義直からの誘いを丁重に断ることにした。それは、信念を曲げることができない次郎兵衛自身の考えによるものである。
「本当にありがたい話だが、わしは刀を置いてこの島で漁民として勤しむつもりだ」
次郎兵衛は、義直と考え方が違うからという理由で仕官を断ったわけではない。この島を安住の地に選んだのは、戦いとは無縁の生活がしたいという次郎兵衛の願いに合致しているからである。
それ故に、側近としての登用を要請した義直に感謝の気持ちを示すとともに、自らは1人の漁民として生きる決意を固めた。
「そうか……。これまでの経緯もあるし、次郎兵衛が刀を置くという決断をわしも尊重したいと考えている」
義直の屋敷から出てきた次郎兵衛は、右腰に差している刀に手をつけた。
「これで、もう長い旅路も終わりにしよう」
刀を置くという決心は、決して揺らぐことのない次郎兵衛の信念といえるものである。そこにいる次郎兵衛は、敵に向かって刀を自在に操る姿とは違う柔和な顔つきを見せている。
こうして、次郎兵衛が自ら作った真鯛の塩焼きは、おみさがおいしそうに口の中に入れて食している。次郎兵衛も、自ら作った食事を食べるおみさの姿に一安心である。




