その2
次郎兵衛は太吉の指示を受けながら、島に向かって漕ぎ続けている。
「おじちゃん、おいらの言う通りに漕いでくれよ」
「島へ行く方向は分かるか?」
「おいらはいつも漁に出ているから、それくらい分かるぞ」
陸地から離れてしばらく漕いでいると、かすかに島らしきものが見えてきた。
「この先にある島が走島なのか?」
「あの島が、おいらの家族が暮らす走島だぞ」
次郎兵衛は木舟を漕ぎながら、太吉の右腰をじっと見つめている。
「太吉、腰につけているのは?」
「おじちゃん、知らないの? これはスカリという網袋だぞ。魚が取れたらここに入れるんだ」
海を見ることが珍しい次郎兵衛にとって、漁を行っている太吉から学ぶことは多い。大人といえども、海を知り尽くした少年の言葉には説得力があることを思い知らされた。
やがて、小舟は砂浜に面した波打ち際に到着した。太吉はようやく走島へ戻れたことにホッと一息をついた。
2人は、太吉の小舟を砂浜の上へ戻した。波打ち際だと、小舟が沖のほうへ流されてしまうからである。
走島に着いてから、次郎兵衛はすぐ近くに大きな屋敷があることに気づいた。小さい島であれだけの屋敷を持つ人物がいることに強く感心している。
「近くにある大きな屋敷だけど、その屋敷にいるのは?」
「おじちゃんは初めて見るから知らないけど、あの屋敷はこの島の領主である村上様の屋敷だぞ」
初めて聞く名前ながらも、次郎兵衛は太吉の説得力ある言葉に耳を傾けた。
村上様は、戦国時代に活躍した村上水軍の流れを汲んでいる。初代の村上義光は、100年近く前に無人島だった走島を開拓した功労者である。
醤油や味噌の製造で財をなした村上様であるが、決して島民に対していばるようなことはしない。島のことを誰よりも考えているからこそ、島民から慕われる存在として知られている。
「おいらの家がこっちにあるから、おじちゃんも一緒に入ろうよ」
次郎兵衛は、太吉に案内されながら家の中へ入ることにした。その家は、砂浜に面した小さな漁家である。
家の中には、板の間で20代後半とおぼしき女性が座りながら赤ちゃんをあやす姿があった。その女性は紐で結った短い髪に、袖なし短い簡素な着物をつけている。
旅人姿の男が現れた途端、女性は顔を背けながら相当おびえている様子である。これを見た太吉は、すぐに次郎兵衛の前へ出てきた。
「おっかあ、そんなに恐がらなくても大丈夫だって! このおじちゃんは潮で流されたぼくを島へ戻そうと木舟を漕いでくれたんだ」
太吉の言葉を聞いて、女性もホッと胸をなで下ろした。次郎兵衛は板の間へ上がると、その女性に唐突に現れたことを詫びた。
「いきなり家へ入り込んで、気を悪くしたのであれば本当に済まない」
次郎兵衛はその場に座ると、女性の前で頭を下げた。すると、その女性は先ほどとは表情が一変してやさしい顔つきを見せた。
「いえ、私こそあなたを海賊の一味と疑っていたもので……」
その女性が抱いている赤ちゃんは、腹掛け1枚だけの姿である。母親のやさしさに抱かれて、赤ちゃんはすやすやと眠っているところである。
「わしは、次郎兵衛という者だ」
「私の名前はおみさ。こちらこそよろしく」
おみさは自己紹介を交わすと、次郎兵衛の右腰に差している刀の鞘を見ていた。
「刀を持っているということは、もしかしてお侍さん?」
「いや、わしはしがない旅人だ。終わりなき旅をするべく、この足で歩き続けているのだ」
あれだけの刀さばきを持つ次郎兵衛なら、少なくとも用心棒として十分な能力を持っているはずである。敵の動きを瞬時に見抜く力は、用心棒として必要不可欠である。
それにもかかわらず、次郎兵衛は表立って仕官を懇願することも、用心棒になりたいと持ち掛けたことも一切ない。
左利きに対する風当たりが大きいということも要因の1つである。しかし、それ以上に権力へ媚びようとしない次郎兵衛の強固な性格によるところが大きい。
次郎兵衛が目を向けるのは、常に弱い立場にいる人たちである。おみさの目を見て、次郎兵衛は何か事情があるのではとすぐに感じ取った。
すると、おみさは息を決して次郎兵衛にあることをお願いすることにした。
「次郎兵衛さん、お願いです! 私たち家族を海賊から守ってほしいの!」
その言葉には、海賊によって父親を失った悲しみが癒えないことを如実に示している。
豊臣秀吉による海賊停止令によって、公式には海賊は存在しないはずである。あの村上水軍も、これによって海賊としての活動から手を引いた。しかし、これはあくまで表向きのことである。
おみさは、次郎兵衛に訴えかけるようにこう続けた。
「漁師たちは、いつ海賊に襲われるかもしれないとおびえているわ。私の主人も、漁をしている途中に海賊に殺されて……。ううっ、ううううっ……」
涙声でこれ以上言い出せないおみさの姿は、次郎兵衛にも十分伝わるものである。
「海賊をこれ以上のさばらせるにはいかない。島の人々を守るためにも、わしが少しでも力になれば……」
人々が少しでも安心して暮らすことができるように、次郎兵衛は海賊たちをこの手で倒すことを心に決めた。




