その1
ここは、沼隈半島の南端にある鞆の浦へ向かう道である。その道を歩いているのは、終わりなき旅を続けている旅人姿の男である。
左を振り向けば、そこは瀬戸内海とその島々が見渡すことができる砂浜がある。
「広い海が見えるところを歩くのは、いつ以来だろうか」
次郎兵衛は、久しぶりに見る海の風景に立ち止まることにした。そうは言っても、ならず者から命を狙われている立場であることを忘れているわけではない。
次郎兵衛は周囲を警戒しつつも、海が見える松の木のそばで一休みすることにした。砂浜では、ふんどし姿や腹掛け姿の子供たちが何人も泳いだり遊んだりしている。
その様子を眺めていた次郎兵衛であるが、後ろからはならず者たちが命を狙おうと忍び寄ってきた。
「あそこを見ろよ。おれたちがいるとも知らずに一休みしてるぜ」
「おれたちに気づいていない今のうちに始末しようかな、ふへへへへ!」
ならず者の連中は、次郎兵衛の背中に向けて刀を振り下ろそうとした。しかし、その動きに気づいた次郎兵衛は振り向きざまに背後からの敵をバッサリと斬り倒した。
次郎兵衛に気づかれたならず者たちは、5人がかりで一斉に襲いかかってきた。そんな状況の中、次郎兵衛は冷静な気持ちで刀を構えた。
「左利きということは、もしかして次郎兵衛なのか?」
「左利きの次郎兵衛とは、このわしのことさ」
次郎兵衛が左利きであることは、ならず者の間で知られた存在である。もっとも、ならず者たちは次郎兵衛が自分たちにとって邪魔者であることは言うまでもない。
「こんなところで会うとは、おれたちにとって好都合だぜ」
「好都合というのは、こういうことを言うんだよ!」
ならず者たちは、すかさず次郎兵衛に刀で斬りかかった。しかし、次郎兵衛は研ぎ澄まされた刀さばきでならず者連中を次々と斬りまくった。
次郎兵衛の周りには、ならず者たちの屍がそこかしこに転がっている。この状況に、ならず者連中は次郎兵衛に歯が立たないという雰囲気が漂い始めた。
「くそっ! 覚えてやがれよ!」
残った連中は、言葉を吐き捨てながらその場から去ることになった。次郎兵衛は鞘に刀を入れると、砂浜から離れて鞆の浦へ向かおうとした。
そのとき、後ろから子供らしき声が次郎兵衛の耳に入った。次郎兵衛は、再び砂浜のほうへ向きを変えることにした。
そこには、10歳くらいのふんどし姿の少年が立ち尽くしていた。少年は、途方に暮れた様子でうつむいている。
これを見た次郎兵衛は、少年のそばに近づいて声を掛けた。
「何か元気がないようだが、どうしたの?」
「だって……。うううっ……」
少年は何かを言いかけた途端、思わず泣きべそ姿を次郎兵衛の前で見せてしまった。これを見た次郎兵衛は、その少年と一緒に砂浜に座ることにした。
「そんなに泣かなくても大丈夫だぞ。わしがちゃんと聞いてあげるから」
「実は……。ここから遠く離れた走島の沖のほうで漁をしようと小舟を漕いでいたけど……」
少年はたどたどしい口調で自分が置かれている状況を語ったが、その途中で言葉が詰まりかけた。
しかし、自分がここにいることを次郎兵衛に伝えようと、少年は再び口を開いた。
「でも、途中で潮に流されてここまできてしまったの……」
少年の言葉を聞いた次郎兵衛は、波打ち際に打ち上げられた木舟のほうへ行った。
「これを子供1人で乗りこなしていたとは……」
次郎兵衛が驚くのも無理はない。大人ならともかく、少年が自分の力で木舟を動かすのは非常に大変なことである。
「わしは次郎兵衛という者だ。君の名前は?」
「おいらは太吉という名前さ。でも、どうしてそういうことを聞くの?」
お互いに自己紹介をした2人だが、太吉は急に改まった態度を見せる次郎兵衛に疑問を抱いていた。
そんな疑問を払拭したのは、次郎兵衛が発したこの言葉である。
「太吉、父親と一緒に漁をしたりとかしないのか?」
この言葉に、太吉はうつむきながらこうつぶやいた。
「おっとうは死んじゃったんだ……。漁をしているときに、いきなり海賊に襲われて……」
父親を失った突然の出来事に、太吉は深い悲しみに包まれた。二度と目を開けることもない父親の屍のそばで、太吉はずっと泣き続けていた。
「おっかあは生まれたばかりの赤ちゃんの世話や家のことで精一杯だから、おいらがおっとうの代わりに漁に出ているんだ」
まだ子供であるにもかかわらず、太吉は父親のいない一家の重責を負わなければならない立場にある。これを聞いて、次郎兵衛は太吉のためにどんなことができるのか考えていた。
「わしが漕ぐのを手伝うから、この木舟で島のほうへ戻ろうか」
「おじちゃんも一緒にくるの?」
「ああ、そうさ。走島がどこにあるのか指示してくれれば、それに従って漕げばいいわけだし」
次郎兵衛はその場で着物を脱いでふんどし姿になると、その着物を持って木舟に乗り込んだ。そして、太吉とともに波打ち際から走島へ向かって木舟を漕ぎ出した。




