その7
真夜中の暗い中で、岸村は次郎兵衛を亡き者にしようと刀を手にしている。その姿は、暗闇でより一層不気味さを際立たせている。
「貴様! このわしが暗闇の中に葬ってやるわ!」
岸村は暗闇という状況で、次郎兵衛を切り裂こうと刀を振り下ろした。しかし、次郎兵衛のほうも、月のわずかな光を頼りに辛うじてかわし続けている。
「どうした! 逃げてばかりしやがって」
刀を使えない次郎兵衛は、終始優勢の岸村の前に交わすのが精一杯である。すると、次郎兵衛は土間の引戸が開いていることに気づいた。
「引戸が開いていることだし、ここから庭へ出れば……」
引戸が開いたままの出入り口から庭のほうへ出たのは、狭い家の中と比べて広く使えるからである。とはいえ、刀を持たない次郎兵衛が依然として不利である状況に変わりはない。
「おい! なぜ逃げてばかりしているんだ!」
岸村による再三の発言にも、次郎兵衛は無言のままである。うかつに言おうものなら、相手に自分の弱みを握られてしまうからである。
一方、岸村は何度やっても次郎兵衛を斬り倒せないことにいら立っている。無礼者1人すら倒せない有り様に、代官としての威信に傷がつきかねない。
その時、おはなが何かを持って引戸から出てきた。その右手に持っているのは、鞘に入った次郎兵衛の刀である。
「次郎兵衛さん! これを早く受け取って!」
次郎兵衛は鞘に入った刀を受け取ると、すかさず左手で刀を抜いて持ち構えた。
「貴様……。よくもなめた真似をしやがって……」
「今度はこちらから行くぞ!」
形勢が逆転した次郎兵衛は、岸村に向かって刀を振り下ろした。岸村のほうも刀で受け止めると、すぐさま反転攻勢に出ようと試みている。
こうして、2人の戦いは互いに相手の出方を見ながら一進一退の状態が続いた。
そのとき、次郎兵衛は岸村の足の動きが鈍っているのをこの目で見つけた。
「岸村! 一瞬の油断が命取りになったようだな」
次郎兵衛は、左手からの刀さばきで岸村を斬り倒した。縦横無尽に斬られた岸村は、膝から地面に倒れてそのまま息絶えることとなった。
次郎兵衛は岸村の屍を見届けると、引戸の前で見守っていたおはなとともに家の中へ入ることにした。
「代官の立場にある者が、自分の意のままに振る舞おうとするとは……」
岸村たちとの死闘を終えた次郎兵衛は、布団の中でしばしの眠りに入った。
その後、岸村たちの遺体は高屋川で発見されることになった。代官の振る舞いに快く思わなかった高屋宿の住民にとって、これで平穏な生活が戻れると安堵したのは言うまでもない。
東のほうから日が昇ると、いつものようにセミの鳴き声が板の間へ入ってきた。
その鳴き声で目を覚ました次郎兵衛は、すぐに布団から出ることにした。隣を見ると、吾助が顔を出すことなく布団に潜り込んだままである。
「吾助、もう朝になったぞ」
「も、もう……。恐い人はいなくなったの?」
次郎兵衛の呼びかけにも、吾助は顔を出そうとはしなかった。岸村の人質になったのが相当こたえたようである。
そこで、次郎兵衛はあの言葉を吾助に言うことにした。
「悪い人たちは、わしが全部やっつけたから心配しなくても大丈夫だぞ」
その声に、吾助は布団から恐る恐る顔を出した。
「父ちゃん、本当に大丈夫?」
「ああ、大丈夫さ。朝になったことだし、早く起きないといけないぞ」
吾助は、次郎兵衛の顔を見てすっかり安心している。これを見た次郎兵衛は、吾助を布団から出すことにした。
いつもと違って、吾助は珍しくかわいい表情を見せている。しかし、吾助の腹掛けのほうは、いつも通りぬれていることに変わりなかった。
次郎兵衛は、隣にある吾助の掛け布団をすぐにめくった。そこには、吾助がしたばかりの見事なおねしょが大きく描かれている。
「あれだけ恐い思いをしたから、便所へ行くことができなかったんだな」
「えへへ……」
おねしょしてもやさしく接する次郎兵衛の姿に、吾助は思わず照れ笑いを見せている。
次郎兵衛が庭に出て吾助のおねしょ布団を干していると、桶を持ってきた吾助がそばへ寄ってきた。
「ねえねえ、みじゅくみに行こうよ! 行こうよ!」
吾助は、次郎兵衛と水汲みに行くのが日課になっている。いつも父親がそばにいることが、吾助には当たり前のことになっていた。
そんな吾助に、次郎兵衛は意を決してあることを吾助に伝えることにした。
「吾助、すまないけど……」
「父ちゃん、どうちたの?」
「わしは、吾助ともう別れなければならないんだ。吾助とは、もう二度と会えないかもしれない……」
あまりにも唐突な内容に、吾助は次郎兵衛にしがみついたまま泣き始めた。
「父ちゃん、行かないで! 行かないで! 行かないで!」
大声で泣きながら駄々をこねている吾助に、次郎兵衛は再び口を開いた。
「そんなに泣かなくても……。ここから去っても、心の中ではわしがついているから」
次郎兵衛は、泣き続ける吾助をやさしく抱擁している。そんな次郎兵衛の愛情に、吾助はすぐ涙を手で拭った。
いつものかわいい笑顔に戻った吾助を見て、次郎兵衛はその姿を忘れまいと目に焼きつけている。
この様子に、おはなも涙を流しながらも、吾助の成長をやさしい眼差しで見つめていた。
「次郎兵衛さんと別れるのは私もつらいわ。それでも、最後の別れを笑顔で見送る吾助は本当にえらいね」
次郎兵衛は、別れ際に吾助へある言葉を掛けた。
「吾助、もし寂しかったらわしの顔を思い出すんだぞ。それと、おねしょのほうも少しずつ治して行こうな」
「え、えへへ……」
吾助は、おねしょの大失敗を次郎兵衛から指摘されると思わず照れ笑いを見せていた。
そして、次郎兵衛はおはなにも別れの言葉を伝えようと再び口を開いた。
「おはなと吾助のことは、ちゃんと覚えておくから」
「私たちのことをこんなに寄り添ってくれるとは……。これからは、私たち2人で力強く生きて行くからね」
おはなの力強い言葉を聞くと、次郎兵衛はおはなの家を後にすることにした。
再び歩みを進める次郎兵衛に、吾助は道に出てずっと手を振っている。
「父ちゃん、じぇったいわちゅれないでね(絶対忘れないでね)!」
次郎兵衛は、おはなが吾助に聞かせた子守唄の歌詞が今でも頭に思い浮かんでいる。おはなと吾助のことを思い起こしながら、次郎兵衛は終わりなき旅路を歩き続けている。




