その2
農家の中へ入った次郎兵衛の前には、若い顔立ちの女性の姿があった。その女性は20代後半ぐらいで、袖のない短い丈の着物をつけている。
すると、吾助はその女性のそばへ寄ってきた。
「母ちゃん! 母ちゃん! ぼくの父ちゃんだよ!」
母親は、次郎兵衛のことを父親と呼ぶ吾助にあきれている。
「どうして知らない人をここまで連れてくるの! その人は吾助の父ちゃんではないでしょ」
「母ちゃん、本当にぼくの父ちゃんだもん」
母親が何度も強い口調で言っても、吾助は前言を撤回する様子を見せなかった。吾助は、頑として次郎兵衛が父親であると譲らない。
この様子に、次郎兵衛は母親に声を掛けた。
「本当に済まない。わしがここへきたばっかりに……」
「そんなに気を遣わなくても……。こんなみすぼらしいところだけど、板の間へ上がっていただければ」
母親の気遣いを感じた次郎兵衛は、とりあえず板の間へ上がることにした。
「わしは次郎兵衛。訳あって旅を続けているものだ」
「おはなと申します。吾助と2人でここで暮らしているものです」
次郎兵衛は、自分のことを父親と信じてやまない吾助の思いを改めて受け止めた。それは、父親の不在ということも関係しているのではと次郎兵衛は感じた。
「これには、何か理由があるのでは……」
吾助の様子がどうしても気になったので、次郎兵衛はおはなにその辺の事情について聞くことにした。しかし、おはなは黙ったまま何も話そうとはしない。
「言いづらいのは、わしもよく分かる。せめて、ほんの少しでも事情を話してもらえないかな」
次郎兵衛の再度の説得に、おはなはようやく重い口を開いた。
「実は、私のご主人で吾助の父親だった人がいたの……。その人は佐五郎という名前だったわ」
佐五郎は、高屋宿から次の七日市宿まで荷物を運ぶ継ぎ送りの仕事に従事していた。やがて、おはなとの間に吾助が生まれてささやかな幸せをつかもうとしていた。
そんな矢先に悲劇が起こるとは、その時にはまだ誰も思っていなかった。
それは、吾助が生まれてから数ヶ月経ったある日のことである。
高屋宿の住人が、代官から殴る蹴るの暴行を加えていた。この様子を見ていた佐五郎は、暴行をやめさせようと代官の前へ出てきた。
「岸村様、やめてください! 何があったかは知りませんが、住人にこんな仕打ちをするのはひどすぎます」
「黙れ! わしの肩にぶつかるのは無礼だと言うのが分からないのか」
目の前にいるその代官は、岸村実孝という名前である。岸村は、自ら行っていることの正当性をことさらに強調している。
それでも、佐五郎は住人への理不尽な扱いに黙っているわけではなかった。
「自分が土下座をして謝るから、どうかこの住人を許して……」
「貴様! いらぬ邪魔立てをしやがって!」
低姿勢でなだめようとする佐五郎に対して、岸村は刀を抜くと即座に佐五郎をその場でバッサリと斬り捨てた。
騒然となった住人たちは、倒れたままの佐五郎の周りに集まった。しかし、佐五郎はすでに息絶えた状態になっていた。
「どうして、こんなむごい目に……。ううっ、うううっ……」
佐五郎の死を知らされたおはなは、変わり果てた佐五郎の姿に泣き崩れた。そのとき、岸村はおはなの耳元で冷酷な言葉を発した。
「まさか、こんなにいい刀の切れ味であるとはなあ。無礼者相手に斬るのにふさわしいものじゃ」
その言葉を聞いて、おはなは佐五郎の命を奪った岸村に対する怒りで体が震えていた。
おはなは女手一つで田畑でお米や野菜を作りながら、唯一残された吾助を必死に育てている。あまりにも厳しい現実に、次郎兵衛は心を痛めていた。
「吾助は実の父親の顔を知らないから、わしを自分の父親と思い込んでしまうのか」
次郎兵衛は板の間に上がると、おはなの耳元で小声で話し始めた。
「しばらくの間、わしが吾助の父親を演じるけど……」
すると、おはなは吾助のためであればと父親役を次郎兵衛が引き受けることを快く認めた。
「さあ、今日からわしが吾助の父ちゃんだからな」
「わ~い! ぼくの父ちゃんだ!」
吾助は、次郎兵衛の前でうれしそうに飛び跳ねている。目の前に父親がいることに、吾助は無邪気な笑顔で喜びを隠せない。
そんな2人の姿を、おはなはやさしい眼差しで見つめている。
「吾助も、次郎兵衛さんの姿を見て何かを感じ取ってもらえれば」
同じ屋根の下で暮らすことになった次郎兵衛は、吾助を連れて外へ出た。次郎兵衛が手にしているのは、薪を割るためのまさかりである。
「今から何ちゅるの(するの)?」
「吾助、わしがやっているのをよく見るんだぞ。薪を置いたら、力を入れないで上から振り下ろさないといけないぞ」
次郎兵衛は身振り手振りを交えながら、吾助に薪割りの仕方を教えています。
薪割りが終わると、2人は水汲みをするために桶を持って家から出た。しばらく歩くと、高屋川に面した河原の中へ入った。
すると、吾助は何かをしたくて次郎兵衛の手を引っ張っている。
「ねえねえ、みじゅあちょびちようよ(水遊びしようよ)!」
吾助が水遊びをしたがっているのを見て、次郎兵衛は着物を脱いで河原に置いた。
「それなら、いっしょに川のそばで遊ぼうか。でも、母ちゃんに心配を掛けたらいけないぞ」
次郎兵衛は川の中に足を入れると、吾助といっしょに水遊びをしながら楽しんでいる。いつも腹掛け1枚で快活な吾助の姿に、次郎兵衛も思わず笑みを浮かべた。
水遊びを終えた2人は、水汲みをするとおはなの待つ家へ歩いて戻ることにした。次郎兵衛にすっかりなついた吾助の姿に、おはなもやさしい眼差しを向けている。
「うふふ、次郎兵衛さんのおかげで吾助も喜んでいるわ」
そんな吾助であるが、小さい子供であるが故の最大の欠点がある。それは、4歳になっても夜中の便所が怖くて行くことができないことである。




