その1
次郎兵衛は山陽道を歩き続けると、目の前に高屋川が見えてきた。
「ここから向こうまでは、川の中を歩かないといけないな」
この川に橋がないのは、この先にある高屋宿へ狼藉者や不審者などが入るのを防ぐことが狙いである。
いずれにせよ、まずは高屋川を通ることが先決である。
その前に、次郎兵衛は岩場に座ると竹の皮で包まれた握り飯を取り出した。これは、おつるが丹精を込めて作ってくれたものである。
次郎兵衛はおつるのことを思い起こしながら、素朴な味わいのある握り飯を左手で持ちながら食べている。
「さあ、そろそろ川を渡るとするかな」
次郎兵衛は食べ終わると、川のほとりで着物を脱ぐことにした。ふんどし1枚の姿になると、次郎兵衛は三度笠の上に着物と刀を右手で押さえながら川の中へ入った。
次郎兵衛は川の深みにはまらないように慎重に歩き続けると、やがて向かい側の河原が見えてきた。対岸の河原へ上がった次郎兵衛であるが、そのとき何やら殺気らしきものを感じた。
次郎兵衛がその場で三度笠を外すと、ならず者たちが突如として襲いかかってきた。
「ここから先は行かせないぜ!」
ならず者による襲撃を辛うじてかわした次郎兵衛は、すぐさま鞘から刀を左手で引き抜いた。
「いきなり急襲するとは……。こんなところで物騒なことは避けたいところだが……」
ならず者連中は、次郎兵衛に向かって刀を振り下ろしてきた。すると、次郎兵衛は敵の動きを見ながら次々と斬り倒していった。
縦横無尽に斬りまくる次郎兵衛の前には、ならず者たちの屍が地面に転がっている。刀を突き出しながら近づく次郎兵衛に、ならず者たちは刀を持ちながら後ずさりしている。
「どうした! ならず者にしては骨のないやつらだなあ」
「何だと!」
次郎兵衛の挑発に、ならず者は2人がかりで刀を振り下ろした。しかし、次郎兵衛の刀さばきの前にその場であっさりと斬られてしまった。
「くそっ、覚えてやがれよ!」
ならず者連中は、怒りをにじませながら河原から去って行った。
次郎兵衛は着物を身に着けると、右腰に刀を差して再び歩き始めた。少し歩くと、左側に法泉院が見えてきた。この先を進むと、高屋宿の入口がある。
しかし、高屋宿は幕府の直轄地である。矢掛宿のように藩が管轄するところならともかく、幕府領では番所での厳重な取り締まりが行われている。
「幕府領だし、そこで事を荒立てることは避けないと……」
次郎兵衛は高屋宿を直接通らずに、高屋川沿いの細い道を通ることにした。
山陽道から外れると、田畑が広がる農村風景が次郎兵衛の目に入ってきた。そして、川沿いでは洗濯や水汲みを行う人々の姿があった。
しばらく歩くと、次郎兵衛は川で水遊びをしている1人の子供を見つけた。そこへ行ってみると、かわいくて小さい男の子が腹掛け1枚の姿で水をパシャパシャしていた。
すると、坊主頭の男の子が次郎兵衛にいきなり抱きついてきた。
「父ちゃん! 父ちゃん!」
突然の出来事に、次郎兵衛も戸惑いを隠すことができない。
「ごめんね、わしはぼうやの父ちゃんじゃないの。分かるかな?」
「父ちゃん! いっちょに帰ろう!」
次郎兵衛が何度言っても、男の子はしがみついたままである。男の子にとっては、次郎兵衛が自分の父親であるとすっかり思い込んでいるようである。
「ここで置いてきぼりにして去るわけにはいかないし……」
次郎兵衛は腕組みをしながらしばらく考えると、男の子をやさしく抱きかかえた。
「さあ、いっしょに帰ろうかな」
「父ちゃん、手をちゅないで歩こ! 歩こ!」
次郎兵衛は、とりあえず男の子の父親になり切ることに決めた。男の子は、次郎兵衛といっしょに帰るのが本当にうれしそうである。
河原から上がると、2人は細い道を手をつなぎながら歩き出した。
「ぼうやの名前は、何ていうのかな?」
「ごちゅけ(吾助)!」
坊主頭の男の子は、幼くてかわいい声で自分の名前を次郎兵衛に伝えた。
もちろん、次郎兵衛は吾助の父親というわけではない。しかし、吾助のことを考えると自ら父親役を演じるのも悪くはないと次郎兵衛は気持ちを切り替えた。
そんな次郎兵衛をよそに、吾助は父親といるのがうれしくて喜びを隠すことができない。
次郎兵衛が畑を見渡すと、そこには綿の白い花が全体に広がっている。この一帯で綿花畑が広がっているのには、もちろん理由がある。
高屋は宿場町としてだけでなく、綿織物の盛んなところでもある。綿織物は、農家にとって農閑期の収入源として貴重な存在である。
そうするうちに、1軒の小さな農家が目に入ってきた。これを見た男の子は、次郎兵衛を引っ張るようにして農家の中へ入った。




