その2
小田川に沿って通る山陽道には、いくつもの宿場町が点在している。次郎兵衛がこれから向かう矢掛宿もその1つである。
しばらく歩き続けると、やがて見張り番がいる見附が見えてきた。この見附を通れば、矢掛宿の中へ入ることができる。
見張り番である大番にその旨を伝えると、次郎兵衛はすんなりと矢掛宿へ通行することができた。謀反者がいる場合ならともかく、特に問題ない場合には通行の拒否は行わないそうである。
「もう夕方になったのか。本当に時間は早いものだ」
次郎兵衛が空を見上げると、もうすぐ夕暮れ時である。とりあえず、今夜泊まるための宿を探してみると1軒の木賃宿を見つけた。
矢掛宿は庭瀬藩の所領であり、本陣や脇本陣には多くの有力大名が宿泊や休息のために利用していた。
もっとも、本陣や脇本陣が利用できるのは武士などごく一部の身分に限られており、一般の旅行者が利用するのは専ら旅籠又は木賃宿である。
このうち、金銭に余裕のある人は旅籠を利用し、そうでない人は木賃宿を利用していた。
「ここは亀島屋という名前か。今日はここでゆっきり休むとするかな」
次郎兵衛が入った亀島屋は、矢掛宿にある木賃宿の1つである。
広い板の間には、多数の宿泊者らしきものがいた。そこにいる宿泊者の身なりは、お世辞にも恵まれているとは言えない格好である。
着物を繕った跡が何か所もあったり、破れたところがそのままだったりと宿泊者の暮らし向きが良くないことが分かる。
だからといって、すべての人が悲観に暮れているわけではない。大人たちに交じって子供がはしゃぐところは、次郎兵衛も見ていて微笑ましい限りである。
真夏の暑さは、夕方になってもまだ続いていた。次郎兵衛も、この暑さに顔からにじみ出た汗を手でぬぐっている。
あまりの暑さに、板の間にいる子供たちは丈の短い着物をその場で思い切り脱ぎ捨てた。
「おいおい、こんなところで脱いだら……」
「だって、本当に暑いんだもん」
「腹掛けをつけているからいいでしょ」
うだるような暑さが続く中、子供たちが腹掛け姿になるのはご愛嬌である。
次郎兵衛が広い板の間に上がると、この宿の女将さんが目の前にやってきた。
「いらっしゃいませ。亀島屋へようこそ」
「わしは次郎兵衛という者だ。ほんの気持ちだけど、晩ご飯にみんなで召し上がっていただければ」
次郎兵衛は挨拶もそこそこに、女将さんにある物を手渡した。それは、矢掛宿へ向かう最中に小田川で釣ってきた川魚の数々である。
これらの川魚を見て、女将さんは目を輝かせている。その地方で取れた地魚が晩ご飯に出れば、旅の楽しみがまた1つ増えるものである。
「アユやイワナがこれだけあれば、みんなに出す晩ご飯の見栄えが良くなるわ。本当にありがとうね」
「そんなにお礼を言わなくても……。この宿に泊まる以上、他の人のために尽くすのは当然のことなので」
ここに限らず、木賃宿では朝晩に食べる食事の材料は宿泊者が持ち込むのが普通である。もちろん、その分だけ宿代が旅籠と比べてはるかに安いのは言うまでもない。
「私の名前はおつる。もし何かあったら、私のほうへ言ってくださいな」
おつるは次郎兵衛にそう言うと、すぐに土間へ下りて晩ご飯に取り掛かる準備に入った。
そのとき、突如として柄の悪そうな男たちが徒党を組んで亀島屋へ乗り込んできた。その男たちは宿に入るなり、いきなりわめき散らすように怒鳴り声を上げてきた。
「おい! 借金をさっさと返さんかい!」
「亀蔵はどこだ! 隠れてないで早く出てこい!」
あまりにも怖そうな男たちの顔つきに、宿泊者たちは声を出そうにも出せない様子である。それは、男たちのそばにいるおつるも同じである。
その間も、男たちの怒声はやむことはなかった。
「早く借金を返せ! 借金を返せ!」
すると、宿の奥のほうから亀蔵が男たちの前へやってきた。男たちを見た途端、亀蔵は血の気が引くように青ざめていった。
「すいませんけど……。こんなところで怒鳴り声を上げたら、お客さんが怖がるので……」
「そんなに言うなら、今すぐその場で借金を返せ!」
「借金と言われましても……。わしはそちらから金を借りた覚えはないので……」
借金の返済を迫る男たちだが、亀蔵は男たちの怒鳴る理由に首を傾げていた。これを見た借金取りの1人が、怒りをにじませながら亀蔵のそばへやってきた。
「亀蔵さんよ、まさかおれの顔を覚えてないというわけではないよなあ」
「昭吉さん……。も、もちろん覚えています……」
亀蔵の耳元で不気味な言葉をつぶやいているのは、借金取りの集団をまとめている昭吉である。昭吉は、亀蔵に現実を突きつけようと着物からある文書を出した。
「なら、これが何なのか分かるよなあ」
「そ、それは……」
「井左衛門が、おれたちから借金をしているのは亀蔵さんも知っているよな」
昭吉は亀蔵の右肩に左手を置くと、友人の名前を出して亀蔵を追いつめようとしている。あまりの恐怖に、亀蔵はその場で言葉を出すことはできない。
その様子に、昭吉は亀蔵の目の前に借用書を突きつけた。そこには、井左衛門の名前とともに亀蔵の名前も記されていた。
「井左衛門が借金を返さなかった場合、その借金は亀蔵が肩代わりすると書いているぞ。その証拠に、井左衛門とともに亀蔵の署名と押印がされているからなあ」
その借用書を見て、亀蔵は借金の件で井左衛門から懇願されたときのことを思い出した。
「わ、わしは借金なんかしていない……。井左衛門から何度も頼まれるから仕方なく……」
おびえながら話す亀蔵の様子に、昭吉は亀蔵の胸ぐらをつかみながら恫喝した。
「よくもまあ、そんな言い訳をしているようだが」
「言い訳って……」
「とぼけたことを言いやがって! 肩代わりしているってことはなあ、借金をしているのと同じなんだよ!」
昭吉が発したドスの利いた声に、亀蔵はひどくおびえて声を出すのもままならなかった。
「いいか、今すぐこの場で30両を払え!」
「30両って……。明日までには必ず用意するから……」
亀蔵は何度も頭を下げたが、冷淡な昭吉はそんな訴えに耳を傾けようとはしなかった。
「それだったら、この娘をどっかに売り飛ばせばいい金になるわな」
昭吉は、他の仲間とともにおつるを無理やり引っ張ろうとしていた。
「いやあああっ、ちょっと放してよ!」
「そんなことを言うのなら、おめえの父親を恨むんだな」
「頼むから、わしの娘を連れて行かないで……」
「うるせえ! この娘はおれたちが借金の形として連れて行くからな」
昭吉は何度も懇願する亀蔵を突き飛ばすと、嫌がるおつるを亀島屋の外へ連れ出そうと手を引っ張った。
そのとき、昭吉の耳にあの男の声が耳に入った。
「おい! おつるをどこへ連れて行く気だ!」
その声に昭吉が振り向くと、そこに現れたのは次郎兵衛である。次郎兵衛は、傍若無人に振る舞う借金取りの姿にはらわたが煮えくり返る思いに駆られている。




