致命的片思い
長編小説に挑戦します!
赤と白のために
第一部
1 致命的片思い
ユキオが好きだった。私の幼馴染。私の恋は早い時期に芽を出してそのまま大きくなった。何よりもユキオの感受性が私を惹きつけた。それは“わたし”という謎への解き明かしにも思えた。
保険外交をしていた母親は私の気持ちに気づいていた。そして私を嗤った。
「ねえ。美野。あんた」
仕事から帰ると夕飯の支度をしながら母は言った。
「うちのアパートの向かいの苅谷さんのユキオちゃんと仲良しだけどね。あそこはうちとは違うのよ。家を見ればわかるよね。お父さんとお母さんはその道じゃ有名なピアニストなんだから。そりゃ私たちはよく知らないけど」
漬物を切る母の二の腕は浅黒かった。
山陰の有名な大社に近い町で生まれた。田んぼと山と空ばかりのところ。夏は過ごしやすいが冬は厳しかった。何より天気が一日で目まぐるしく変わる。朝雪が降っているなあと思うとぱたりとやんで陽が射し始める。午後には風が吹くと雨が降り夕方また明るい日が顔を出すという具合だ。昔から言われている“弁当忘れても傘忘れるな”の天気だった。
そんな冬空の下冷たい風にちじれた髪をなびかせ積もった白い雪には似つかわしくない日本人離れした容姿で歩く母は田舎町では人目を引いた。岩国の米軍基地の黒人兵だった父親の顔は覚えていないと言う。私生児だった母を抱えて苦労した祖母を見て育った。あの人のようにはなりたくなかったんだ。・・それなのに。男運のない家系なんだよ。美野、あんたは繰り返しちゃ駄目。
そう何度も母は言った。
「あんたは賢い子。でも肝心なところが抜けてるよ」
大きな黒目が私をじっと見据えた。
保険外交員としての母の仕事は一般の家庭では煙たがられたものの、会社回りではその素晴らしいプロポーションと巧みな話術がうまくかみ合って逆に面白がられていた。だからなかなかの営業成績を上げていたのだが、頑張っても一介の外交員からキャリアアップすることができなかった。その現実を母は相当苦々しく思っていたはずだ。でもそれを娘の私にぶつけることはしなかった。
そんな母だったのに、娘の私の最大の関心といえばアパートの契約の期限が来るたびに母がここを引っ越すと言い出すんじゃないかということだった。それでその時期が来るといつもひやひやしていた。母ほどでないにしても異国の血をひく私だった。髪はストレートだったが日本人と違う大きすぎる目や平たい鼻、分厚い唇が目立っていた。狭い町だから親の口もうるさく子ども達は私に冷たかった。ユキオだけが分け隔てなく私を友達にしてくれたのだ。小顔や手足の長さをあの時誰かが褒めてくれていたら・・今の私は少しは自分に自信が持てたかもしれないのに。・・だから学校が変わることにはなんの未練もなかったがユキオと離れることは耐え難かった。幼稚園から培われた私の片思いは私の心のかなりの部分に頑固に根を張ってしまっていたのだ。神様がそんな私のせつない恋心をわかってくれたのか、母にとってここが仕事で都合のよい場所だったのか決して引っ越そうとはいわなかった。ただ空しい希望を持つなと私に言い聞かせ続けた
。
中古アパートの私の家のそう広くない通りの真向かいに建つユキオの家は古い瓦屋根が多い町の中で唯一白壁のお洒落な洋館だった。ユキオの両親はたいがいどちらかが演奏旅行に出かけていて、ユキオはうちはミノと同じ二人家族だよね、と時々笑うのだった。ユキオの家からは流暢なピアノの音に混じってたどたどしい音も聞こえてきた。あ、ユキオが弾いてるな、と私は六畳の自分の部屋で耳を澄ます。ユキオは一人っ子で両親の期待を一身に受けていたがピアノはあまり好きでないみたいだった。
山肌に射していた日が沈むとユキオの家の玄関の灯が暗がりに淡く浮かぶ。私は窓のカーテンに人影が映るたびにユキオの家での生活を想像して楽しんだ。
ユキオの両親はピアノ以外の教育には熱心ではなかった。だから私たちは普通に幼稚園から“ご近所さん”として手をつないで登園し帰りは通りで手を離して互いの家に戻った。私は門扉を押すユキオの後姿を名残惜しそうに見送った。
こっちへおいで
ユキオはそう誘ってくれないだろうか
私ははかない望みを抱いた。
けれどユキオはためらいなく家の扉をばたんと閉める。私は孤独に通りに残され重いため息をつくのだった。
そんな風にして私たちは一緒に大きくなった。
ユキオはカチリとした目の長身の少年に成長した。射るような目線で女子を怖がらせるところもあったが顔立ちは整い落ち着いていて公平な性格だったから人気があった。でもユキオは実は癇癪持ちで、本人に自覚はないものの親の愛を当然のこととして育ち人の好意に鈍感なところがあるのを私は知っていた。
高校まで私たちは学校の成績で一位、二位を競っていた。そして県下でトップクラスの進学校に入学した。周りはずっと私たちを仲の良いカップルとみなしていたと思う。でも私たちはあくまで“親友”だった。私は自分の気持ちを決して打ち明けなかった。だから私たちの仲は進展しなかった。
それでも長く私たちを親密に結び付けていたもの。それは私たちだけの“秘密”の共有だった。私たちは自分を特殊と感じていて、他人とは区別していた。
―それは謎めいた能力だった。
ユキオには普通には聞こえない音が聞こえた。そして私には見えないものが見えた。
私たちはそれをユキオの第三の耳、ミノの第三の目、と呼んでいた。
高校になるとよくユキオは言った。
「考えてみると不思議なことだよね。僕ら以外に周りにはいないのに。それなのに最初からミノがいたことってさあ。それもすぐ目の前の家にね」
そういって横着して伸び切った前髪をくしゃくしゃいじるのがユキオの癖だった。
「そうだよね」
私は言ってユキオのきっとした瞳を見つめた。
私たちは昼休み体育館の人気のない裏庭でよくお弁当を食べていた。色白で彫りの深いユキオの方が黒人の血の流れる私より外人ぽく見えた。同級生たちは私たちが純粋に日本人でない二人組で、だからいつもつるんでいるんだと思っていた。
「僕は全くの日本人なんだけどな。まあ別にかまわないけどね」
田舎の町でも稀にハーフやクオーターは見かける。でも大方の生徒たちは純粋でない日本人を偏見の目で見た。“同級生”であっても“友達”ではない。二人で動いている私たちは尚更だった。それにユキオは女子に人気があったから私は疎まれていた。それがますます私をユキオに近づけ、ユキオは私以外に親しい友達を作ろうとしなかったから、自然私たちの仲の良さは際立っていた。
そんな風に私はずっとユキオの隣の座を占めていた。他から見れば完全無欠なカップルに見えただろう。でも私は知っていた。この状態が永くは続かないことを。いつか変化が訪れる。・・・例えばユキオが恋をしたら
Ⅱ 奇妙な転校生
二年の二学期だった。
転校生が私たちのクラスにやってきた。東京から父親の転勤でこの時期に転入してきたという山科茜は、艶やかな肩までの髪と透き通るような肌、黒目がちな瞳が美しい女生徒だった。仕立て上がったばかりの紺のブレザーがよく似合っている。そのままこの高校の代表になれそうだった。にわかに男子は活気づいた。いつもは無関心なユキオまで珍しく興味深げだ。・・当然私は不機嫌になる。
なによ。
ユキオも普通の男子じゃない。
ふん。
鼻を鳴らし唇を尖らせた。
・・でも。
私は上目遣いに山科茜を見た。
本当に大違いだ。かわいらしい小鼻と柔らかな頬の線。淡いピンク色の唇。長いまつ毛にふちどられた瞳。小柄だがスタイルもいい。悪いところなんて全くない。
・・それに引き換えおどおどと落ち着きのない扁平な鼻とたらこ唇の私ときたら・・・・・。
うじうじと際限なく自己嫌悪に陥っていく。
そんな風に落ち込んでいった私の目の奥で、突然ある場面が激しく瞬いた。
・・・・・何?
私は面食らった。一瞬息が止まる。反動のように大きく息を吸い込んだ。何かを見たときにする私の儀式だ。そうやって心を静めるのだ。それから斜め後ろの席のユキオを振り返った。そしてぎょっとした。
ユキオはさっきとは別人みたいに青白かった。誰かに両腕を後ろに引っぱられたみたいに不自然に反った姿勢になっていた。黒目が薄くなり口元は何かに抵抗するように薄く開いていた。
―ユキオが音を聞いているときの表情だ
しばらくして私が見ているのに気づいたユキオは顔を歪め笑った。
「何か聞こえたの?」
休み時間にすぐユキオに聞いてみた。ユキオはきつい目になった。
「通りでクラクション鳴った?」
「え?」
「さっき外の通りでさ」
「鳴ってない。」
私は言った。
「何か聞こえた?」
「・・・うーん・・」
ユキオはいらついてばさばさと前髪を掴んだ。
「・・・ラッパの音?」
「ラッパ??」
ぽかんとした私にユキオは苦笑した。
「それってあの子を見たとき?」
私は窓側の席で同級生に囲まれ談笑している茜をちらと見ていった。
「そうだと思うけど・・」
ユキオは首をかしげ曖昧に言った。
聞いてもわからない時があるものだ。私にしても閃いて一瞬で消える光景の意味をあとであれこれ考える。でも説明できないことが多い。まれにその中心がはっきり見え、あ、そうなんだと納得することもある。けれど大抵は自分とは直接関係ないことでそのままやりすごしてしまっている。それにしても山城茜がみせたものはあまりに強烈だった。
一つだけ私の閃きでユキオに感謝されたことがある。まだ小学校の下の学年の時、演奏旅行に行くユキオの父親の車の事故が瞬いたのだ。つぶれた車の運転席の半開きのドアから血だらけの父親の頭部が見えた。私はすぐにユキオに知らせに走った。
―お父さんが死んじゃうよ!
お父さんを止めなくては。私たちは夢中で相談した。そしてユキオは大騒ぎして腹痛を訴え父親の出発日をなんとか遅らせた。過剰に痛がったせいで痛み止めを打たれるというおまけがついてしまったが。その日父親の通る予定だった高速道路では死者まで出る大規模な事故が起きた。ユキオの父親は病院のベッドに寝ているユキオを眺め命の恩人だな、と笑った。
あれからユキオは私の能力を全く疑わなくなったのだ。
「私も見た。あの人のこと」
私はユキオに話そうとした。そのとき周りの生徒から離れて山城茜が私たちに近づいてきた。
「こんにちは」
茜は美しい目でまっすぐ私を見て言った。澄んだ甘い声だった。
「初めてで何もわからないの。いろいろ教えてください」
そう言ってすっと私の右手を掴んだ。茜の手の温かさが伝わってきた。女の子からこんな風に好意を示されたのは初めてで私は戸惑った。私の手を握ったまま昼休みに学校を案内してくれない?と茜は頼んだ。
「いいよ。僕らでよければ」
私より先にユキオが答えた。人見知りなユキオにしては珍しく快活に。
昼休みになると茜を連れて食堂や音楽室や美術室、多目的ホールや体育館を回った。
「美野さんてかわいい名前」
そう言って体を押し付けてくる茜に私は閉口した。ただただ恥ずかしかった。ユキオはそんな私を面白がってるみたいだった。俄然私たちは注目されていた。当たり前だ。こんなきらきらした女の子と一緒なんだから。今まで目立たずに隅の方ばかりにいた二人だったのに・・。
教室に戻ると茜はありがとう、と礼を言った。
「あなたたちはいい人ね」
「会ったばっかりだろう」
ユキオが苦笑いした。
「そうね。でもうち転勤族だから。人を見る目は肥えてるの」
いたずらっぽく笑って茜は自分の席に戻っていった。ユキオは上気した頬を擦っている私に気づいた。
「びっくりだね」
「ほんと」
信じられなかった。その日は一つとんだ前の席の茜の背中をぼうっと眺めて過ごした。
放課後所属する生物部で動物たちに餌をやったあとユキオと駅までの道を自転車で走った。通学路はブドウ栽培のビニールハウスの狭い通りを縫っている。黄金色の夕日がハウスの壁を染めていた。山も広がる田畑も燃えていた。私はハンドルを握る右手に視線を落とした。茜の握ったところがまだ熱かった。
日暮れ時の風が心地よく顔に当たった。耳のあたりで髪がわさわさと音を立てる。私の中で何かがぱんとはじけた気がした。かけらは砕け散って跡形もなくなった。体も心も少しだけ軽くなった。自然に頬が緩む。私は深く息を吸いこみ頭上に広がる赤い空を見上げた。
このまま宇宙まで行けそうだ
私は思い切りペダルを踏んだ。
この間見た映画みたいだ
ペダルを踏む足を早めた。
「おおい。ミノ」
後ろでユキオの声がした。
「待ってくれえ」
気持ちが良かった。私はユキオに笑いかけさらにスピードを上げて走った。
無人の駅に着くと駐輪場に自転車をおきそのまま電車に乗った。ドアのところに立つ運転手に定期を見せユキオと四人がけの席の窓側に座る。
「今日はずいぶん楽しそうだね」
ユキオがほほ笑んだ。
「・・うん」
私は動き出した電車の窓から外を眺めた。青に変わり始めた空の一部で最後の残照が雲のふちを赤く染めていた。生々しい血のような色だった。ふと昼間見た茜の映像が蘇る。蒼白な顔で何処か暗い場所に立っている茜。その手から滴っていたものは・・・・。その表情はまるで別人のようだった。憎悪に満ちた瞳が青く輝いていた・・・
・・でもいつも真実を見るわけではない。私の想像かもしれない。あんなに綺麗な女の子だもの。いじけた私のコンプレックスが意地悪して見せた幻じゃないだろうか。私は振り切るように首を振った。