ハコダテ
地縛霊のくせに、リョウは生意気だ。
私の気を吸って姿を保っているくせに、私がリョウにちょっとのぼせているからって、絶対調子に乗っている。ぼんやりおっとりの引きこもり男子を装っているだけで、実はかなりの自信家じゃないだろうか。
私は、リョウが通っていた大学を訪れた。大学の、郊外移転がはやったときに建てられた広大なキャンパスだ。私の大学よりも、いっそう辺鄙なところにある。東京の西の外れ。冷たい風が丘陵を吹き抜け、やや肌寒い。ぶるっと震えながら、私は薄手のコートの前を合わせた。呪いのしるしのせいで体調がよくないせいか、寒さもこたえる。
まずは、事務を取り扱っている学生部へ。約束はしていない。リョウのことで、なんて電話で唐突に切り出しても、受け入れてもらえないだろう。突撃、直談判がいちばんだ。多少恥ずかしい思いをしたり、怒られても、傷ついたりしている暇はない。今はできることを、できる限りつくすしかない。
受付で、リョウ……朝香響の名前を出すと、案の定とてもいやな顔をされた。それでも諦めずにしつこく食い下がると、別室に通してくれた。
「ごめんなさいね。学生の個人情報は教えられないのよ。卒業生はもちろん、退学者や除籍者についても」
対応に出てくれた女性事務員は、申し訳なさそうに、しかしきっぱりと主張した。
「どんなことでも構いません。小さなことでいいんです。むしろ、彼のデータは要りません。評判とか、噂とかが知りたいんです。調べれば調べるほど、彼の死は不自然です」
私も懇願した。現在自分の住んでいる部屋が、かつては朝香響の部屋だったことなどを具体的に説明し、なぜ彼が死に至ったのか調べていると本音を語った。
「評判、といってもねえ、朝香くんといえば三年前の話でしょう。私もうっすらとしか記憶にはなくて。このキャンパスには、三千人いるのよ。学生と教職員を合わせてね。ひとりひとりの顔と名前の記憶なんて、ちょっと難しいわ」
「そうですか……はあ」
がっくりと視線を落とした私に、職員は憐れみを感じたらしい。
「でも、彼は目立っていたから、学内では注目されていたわね。ここからは、私のひとりごとよ。いい、私の単なるつぶやきだから」
そう言い置いて、独白がはじまった。
「あの容姿だもの。女なら、気になるわよね。で、事件のこともあって、キャンパスは一時期、彼の噂で持ちきりだった。ああそう、彼は法学部だったから、そちらの棟へ行けば、朝香くんの同級だった現四年生が在籍しているはずね。はい、ひとりごとはおしまい」
「あ、ありがとうございます!」
「お礼は受け取れないわ。ひとりごとだもの。調査、がんばって。力になれなくて、ごめんなさいね」
深々と頭を下げ、私は法学部の棟に向かって小走りになった。四年生の晩秋。忙しいはずだが、リョウと同じクラスだったという女子数人のグループをなんとか確保できた。寒いのに、暑い。私は大汗をかいていた。かぜでもひいたみたいだ。
「朝香くんって、あの朝香? いやだ、あんなやつのこと、調べてどうするのよ」
「今ごろ? とっくに死んだよね」
「わりと顔はよかったけど、性格が暗くてさ」
「そのくせ女子がいっつもまとわりついていたよね」
「そうそう、しかも毎日違う女で」
「何様かっての」
「でも、あれじゃ健全な社会生活はできなかったよね。せいぜいヒモ暮らしでしょ」
評判は最悪だった。今まで耳にした中で、もっともひどい話の数々。本人が聞いたら、どうしただろう。この場に連れてこられないのがつくづく惜しい。リョウの口から直接、反論させたいのに。
リョウはまじめで、やさしいだけなのに。
女子学生の噂話は、リョウに教えられなかった。
私は、函館空港に降り立った。
リョウの呪いのせいで、外泊ができない身体にされている。首筋につけられた黒い痕は、すでに胸全体を覆うまでに成長していた。はじめは嘘か冗談だと思っていたけれど、ここまで育ってしまうと信じるしかない。乙女の上半身にどす黒いしるしが広がっているなんて、泣けてくる。
「寒い」
十一月の北海道は、東京の真冬の寒さ。しかも天候は雪。昨日、天気予報をチェックしておいてよかった。まさかとは思ったが、寒い。海から吹きつける風も強い。
リョウに見送られ、早朝便で到着した。現在、午前八時半。飛行機の中でも寝ていたけれど、まだ眠い。とりあえず、空港で淹れたてのコーヒーでも飲みたいけれど、時間もお金もないので自販機の缶コーヒーで我慢する。引っ越しだけでなく、今月はアルバイトもできず、大出費だ。それでも缶コーヒーはあたたかく、私の心をいやしてくれた。
バスで、市内中心部へ移動。
朝香家のお墓は、元町のさらに東側にある。とりあえず駅前まで出て、それから路面電車に乗り換えようと思っている。少しさびしげな海岸沿いの道を抜けると、市街地へ出た。
「五稜郭かあ。いいなあ」
帰りの飛行機は、午後七時。初めてのひとり旅にして、自分の命がかかっている。手がかりをつかまなければと思うと、さらに緊張する。
奇しくも、今日はリョウの命日。偶然とは思えない。
お墓は、市街地の寺にあるという。九時二十分、最寄駅の函館どつく駅を下りると、目の前に小さな公園があるだけ。路面電車を出た十人ほどの人もあっという間に散開し、私は早くもひとりきりになってしまった。
目の前にはまっすぐな上り坂。地図でお寺の位置を確かめる。十分ほど歩けば着くはずだ。ぱさぱさと軽い雪なので傘はささずに、帽子を被り直した。
それにしても、誰も通らない。寒さのせいだろうか。
私は駅前で買った供花を持ち、せっせと上る。風が強くて町が狭い函館は大火災に遭ったことが過去何度かあり、町の中にあったお寺は集中移転してきたらしい。なるほど、お寺の白壁と瓦屋根が続いていた。立派な門構えの寺もある。
しばらくすると、身体があたたまってきた。指先や耳は凍りそうなほど冷たいのに、身体は暑い。コートと手袋の隙間を埋めようと思い、コートの袖をめくったとき、黒い痕が手首にまで広がっていた。あわててもう片方の腕も確かめたが、こちらも真っ黒に染まっている。私は苛立って来た。すべて、リョウのせいだ。死んだリョウのせいで、生きている私が苦労するなんて、ひどい。
けれど、自分で解決するしか道はない。
私はマフラーを帽子の上からぐるぐると巻き、道を進んだ。
目指していたお寺は、なかなか古くて由緒ありげな存在感を持っていた。門をくぐり、右手に墓地がある。私は目を疑った。切り出された斜面にびっしり、お墓がある。なかば雪で埋もれている。お寺まで上るのも大変だったのに、あんな山の頂上までさらに上るなんてできないと落胆したが、朝香響の母にもらったメモを見ると、朝香家のお墓は本堂のすぐ裏手にあった。
朝香家のお墓に近づくと、線香の薫りがした。先客がいる。髪の短い、若い女性だ。お墓に向かって手を合わせて一心に祈っている。どうしよう、一瞬迷ったが、今日朝香家のお墓参りをしているということは、リョウの知り合いである可能性がある。私は女性が参り終わるのを待って声をかけることにした。
しかし、先祖代々の墓のせいか、墓石が見上げるほど大きい。土台を含めると、三メートルぐらいありそうだ。この下に、リョウの身体は眠っているのかと思うと、少し胸が熱くなる。
「あなたも、響のお参りなのね」
ぼんやりしていると、女性のほうから私に声をかけてきた。明るいピンクのコートを着た、私よりも少し年上そうな女性。大きい目が印象的で、よく整った顔立ちをしている。
「は、はい。東京から来ました」
「遠いところを、ありがとう。響も喜ぶわ」
あれ、母親みたいな身内っぽい言い方。私は思い切って尋ねてみる。
「もしかして、リョ……朝香くんの親しい方ですか。恋人さんだった、とか」
「まさか。私はただの古い付き合い。腐れ縁っていうか。最期は、ほんとうに腐っちゃったけどさ。ま、とにかく響に挨拶してよ。せっかく来たんだし」
「はい。そうします」
私は被っていたマフラーと帽子を取り、お花を供え、お墓の前で一礼した。『朝香家乃墓』。立派過ぎて気後れがするので、手を合わせてそっと目を閉じる。この中で、リョウはきっと数少ない若手だろう。
絶対、真相をつかんで成仏させます。
言いたいことはそれだけだ。私は落ち着きを取り戻し、さきほどの女性と話を聞こうとしたが、もういない。
「待って、待ってください!」
門のところまで走ったけれど、どこにもいない。道にも。挨拶をしていたのは、ほんの三十秒ほどだったのに、消えるようにいなくなってしまった。大切な手がかりだったのに。
「まさか、あれも地縛霊?」
「誰が地縛霊よ、誰が」
背後で、車のクラクションが鳴る。運転席には、先ほどの女性が座っていた。
「車、あたためていただけ。幽霊扱いしないで。このあとどうするつもり? 函館観光?」
「いえ、なるべく早めに帰ります」
「もう帰るんだ」
「はい。事情があって日帰りです。でも、朝香くんの話、聞かせてもらえませんか! お願いします」
よほど深刻そうな言い方に聞こえたのか、女性の顔に憐れみが浮かんでいる。
「いいよ、今日は休みを取って暇だから。乗って」
「ありがとうございます!」
私は女性の車に乗せてもらい、寺を出た。私が熱くなったり冷え切ったりした坂道を、車はころころと順調に下った。
「車がないと、北海道はきついよ。特に函館は坂が多いから」
「免許、まだ持っていないんです」
「若そうに見えたけど、年下か」
「二十歳です」
「響の後輩?」
「はあ、そんなところです」
「あいつ、私の知らない女がまだいたんだ……いや、こっちの話。この近くに、昔の商店を改築したカフェがあるから、そこで話そう。観光客にも人気なんだ」
「はい」
案内されたお店は、昔の店舗兼住宅の外観を残しながらも、今風にアレンジされたおしゃれカフェだった。奥のソファにどっかりと座った女性はコーヒーを注文した。しぐさが、男らしい。私はロイヤルミルクティーを頼んだ。
「ええと、東京から来たんだったよね」
「そうだ、自己紹介。私、長谷川桃花って言います。東京の、大学二年生です」
「よろしく。私は石田優子」
その名前には聞き覚えがあった。リョウが引き会わせてくれたのかもしれない。
「もしかして、朝香くんの幼なじみの、優子さんですか」
「私のこと、知っているの?」
優子はコーヒーを飲む手を止め、驚いていた。見開いた目をぱちぱちさせている。
「はい。朝香くんのお母さんに聞きました。朝香くんのことをいちばんよく知っているのは、優子さんだって。でも今は、連絡がつかないって」
「おばさん、そんなこと言ったんだ。ふうん、ちょっとうれしいかな。でも、響を殺したのは私みたいなものだからね」
「殺した? 朝香くんを? まさか」
私は立ち上がった。
「しっ、静かに」
ほかにお客さんがいなくてよかった。私は座り直した。
「ごめんなさい」
「聞いていないの、事件のこと」
「朝香くんは自殺だったと。でも、納得いかなくて」
「自殺は自殺だよね。でも、追い込んだのは私。近くに住んでいたころはよかったんだよね、いつでも会えたし、あいつの面倒を見られたから。ほら、響ってさ、気が弱いのにあの顔でしょ、いつも女どもにちょっかい出されて、困っていたの。女が寄りつくたびにいちいち追い払っていたんだけど、私って身体が弱くてさ。療養のために引っ越したらぐんぐんよくなって、今はスポーツクラブで働いているんだ。で、なんで響のことを調べているわけよ」
「ええと、信じてもらえないかもしれないけれど、正直に言います。私の住んでいる部屋……つまりうちに、朝香くんが憑いているんです」
「うちに、憑いている?」
優子は目を丸くした。
「はい。部屋に。出るんです、彼が。私、彼の憑いている部屋を借りています」
懸命な私は、わりと真面目に言ってのけたつもりだったけれど、優子はあきれている。
「ばかばかしい。妄想に付き合って損した。私、霊感ないから。その手の話、苦手だし嫌いなの」
優子はソファを蹴って立った。
「ほんとうです! 冗談でこんなこと、言えません。私、朝香くんに呪われているんです。嘘だと思うならこれ、見てください」
私は手袋を外し、セーターの袖を折り返した。黒い痕は、すでに指先にまで到達している。黒い蛇がうねうねと這っているみたいな柄だ。
「最初は、一点のしみのような痕でした。でも、この数日でどんどん広がって。全身に回ったら、私も連れていかれます。この世でもあの世でもないところへ」
「これ、響のしわざなの? 女の子に、こんなことって。ひどい。響はやさしい子だったんだよ。傷つけてしまうからって、次々と言い寄る女の子を断れないぐらいね。それで、響は女の子たちに挟まれて、心を病んでしまっていて。私の身体が元気になってきたから一年ぶりぐらいで上京してみたら、とても驚いた。苦しんだ響は、とっくに薬漬けになっていて、かわいそうだった。だってさ、取り巻きの女の子が、十人……ううん、二十はいたかも。響が断れないのをいいことに、勝手にローテーションを組んで毎晩ひとりずつ、響の部屋に泊まっていたの。好きでもない女の子と、毎晩だよ。あいつ、やさしかったから」
「ひどい」
「でしょ。だから言ったの。『一緒に死のう』って。私、響にめちゃくちゃたくさん睡眠薬を飲ませて、服を脱がせてベランダに放置したの。十一月とはいえ、夜は冷えた日だった。自分も飲んだんだけど、量が足りなかったみたいでさ、起きちゃって。でも、響はいつになっても静かな顔して目覚めないから、怖くなって、通報して。私は、逃げた。自殺幇助どころじゃない、響は私が殺したんだ。ひどいよね」
優子は俯いたまま、黙ってしまった。
「優子さん、今からでも遅くありません。一緒に来てください」
答えない優子の肩を、私は揺さぶった。
「朝香くん、いいえ私はわけあって、彼のことをリョウくんと呼んでいますが、リョウくんは優子さんの名前を聞いて確かに動揺していました。あなたに、言いたいこと、あるいは思い残していることがあると思います。どうか、一緒に来てください」
優子は私の手をやさしく払いのけた。明らかに、拒否されている。
「……一緒に来てって、警察かなにか? いやよ。悪いことをしたとは思っている。でも、響はとても苦しんで、死にたがっていたもの」
「いいえ、警察ではありません。うちに来てください。彼が、待っています」
「万が一、あいつの霊がいるとして、今さらどんな顔をして会えって言うの。無理だよ」
「リョウくんの顕現力は、半端ないです。なにせ、生きている人間の生気を吸っていますから。優子さんにも、きっと見えます。この黒い痕がある限り」
私はもう一度、黒く染まった腕を出して優子に見せた。薄墨ほどだった黒が、今は画用紙の黒のように一面はっきりと真っ黒だ。それが決め手となったらしい。
「信じられないけど。今日は、あいつの命日だったね。仕方ない。騙されたと思って、行ってあげるわ」
ようやく、優子は頷いてくれた。
しかし、雪は次第に吹雪へと変わってしまい、飛行機も遅れた。自宅に着いたのは、日付が変わるぎりぎりの時間だった。