もう2度と乗るもんか
5
僕はマシンがパドックから滑り出すと、ステアリングを目一杯右に切り、じわっとアクセルを踏み込んでピットロードを走り出したんだ。
凄いよ、このマシン! クラッチは重くって浅いけど、アクセルを踏み込むと凄い勢いでタコメーターが跳ね上がる。
生まれてからこんなに興奮したのは初めてさ。
赤と白に塗り分けられたマルボーロカラーのこのマシンに、父さんはずっと乗っていたんだ。
今日はレースじゃないからピットシグナルも出ていないし……あっ、そうか、今走っているのは僕一人なんだ……このコースが僕の貸し切りだなんて想像できるかい?
あっと言う間にコースに進入しちゃって直ぐにファーストコーナーだよ。おっといけない、2速20000回転でオーバースピードぎみだ。いったいこのマシン何キロ出るの?
昔のドライバーはスピード・メーターなんて無くて運転したんだろうけど、今のフォーミュラ・マシンにはデジタルのスピード・メーターが付いてるからちょっとしたカルチャーショックだなぁ。
そんな事言ってる間にもうヘアピンだよ。
げげっ、ブレーキ効かねぇ!
ありゃりゃ? ローギアに入んないよ? もしかして、コーナーごとにヒールアンドトゥしなきゃ駄目なの?
コカコーラコーナーは3速ぎりぎり、まだウィング効いてないから、リアがズルズル滑るし、4速で加速してもホイルスピンだよぉ。
うおっ! このシケイン逆バンクじゃね?
あっという間に、最終コーナーに来ちゃったよ。
2速……3速……4速、マシンはロケットに点火したように加速していく!
物凄いGが身体中の血液を左半身に集めるよぉ。
え? メインストレートに出る直前に5速シフトアップなんてサーカスじゃないっんだから!
お陰でクリップ・ポイントが外側にずれて、コースからはみ出しちゃうとこだった。
メイン・ストレートでアクセルを踏み込んだら、たった2秒で21000回転のレブリミットに達するし、6速全開で計測ラインを超えた頃には車高が3センチも低くなってるよ。
バックミラーに火花が派手に映ってるんですけど? 車が地面こすってるの?
いったい何キロでてるんだろ?
F2でこんなスピード出した事無いよ。
うわっ、あっという間に標識が! 1コーナーまで200メートルしかない……。
ウォン、ウォウォン、ヒールアンドトゥとハードブレーキ……車は粘土の壁に突っ込んだように速度は落ちてゆく、けど、身体はシートベルトで固定されているから目玉が眼窩から飛び出しちゃう。
そして僕は、必死になってテールを流しながら1コーナーに突っ込んでいくんだ。
6
コース脇のサインポストには、ヘッドセットを被った4人の人影が、コースに何箇所か設置された定点カメラの映像と、コンピューターで表示されるアナライジング画面を見上げ、渋い顔で会話を交わしていた。
「おいおい、ヘロヘロじゃないか」
桜田が苦笑いをしながら、ヘアピンを抜けてゆくマシンを見ていた。
「まあ、仕方が無いんじゃないですか? 今の車はアクティブサスやハイキャスなんかが付いてて転がし易いですからね」
小栗はニコッと笑って桜田に言う。
「現代っ子の割には、よく頑張ってる方ですよ、ねえ、森脇さん」
彼は反対に立っている森脇に話題を振った。
「そうだねぇ、でも基本はしっかりしているみたいだよ。コーナーできっちり速度を落として、スムーズに加速していくよ」
森脇は温かい目で定点カメラの映像を見詰めて言った。
「……桜田さん、1週目のラップは何秒ですか?」
小栗がストップ・ウォッチを持った桜田に聞いた。
「1分28秒17、まあ、手動だからコンマ1程度の誤差は有るがね」
「へぇ、新人にしては中々ですね」
「いや、あいつの親父は、非公式だが10秒切っていたぞ?」
その会話を聞いて森脇が口を挟む。
「路面温度が22度だし、タイヤも現行のF1で使っている幅が狭いスリックですからね、とても当時のタイムは出ないでしょう」
「でもさあ、センスはいいんじゃない? 親父さんみたいにアクセルワークは良くないけどさ」
小栗が楽しそうにアナライズ画面を見詰めて言った。
そんな事を話し合っていると、最終コーナーから立ち上がったマクラーレンがドップラー音を響かせて目の前を通り過ぎていく。
リアウィングの両端からは翼端流により2筋の細長い雲がたなびいていた。
「おっと、1分21秒56……7秒半縮めてきたぜ」
桜田は嬉しそうにタイムを読み上げた。
『F1のパイロットって、デジタルデータを全部計測されて、誤魔化す事なんて出来ないんだわ』
サインボードを持って端っこに立つかほりはそう思った。
現代のF1では、エンジン温度、回転数、使用ギア、ブレーキ踏力、ミッション・オイル温度、その他諸々がテレメタリー・システムでリアルタイムにアナライズ画面に表示される。国内でF3に乗った事のあるかほりには、ドライバーの能力が丸裸にされているようでアイルトンが可愛そうに思えた。
再び彼の乗ったマシンが目の前を通り過ぎた。
「ほう、1分17秒02……3秒半縮まったぜ」
桜田が驚いたように呟いた。
「ん~、タイヤとブレーキ・パッドが暖まってきたかな?」
小栗が顎に人差し指を当ててそう言った。
「それだけじゃないよ。ラインが安定してきた。どうやらベストラインを見つけたようだね」
森脇が中継モニターを睨みながら唸った。
「かほりちゃん、次の週ピットインのサイン出してくれる? 無線でもそう伝えてね」
小栗がかほりに指示を出した。
かほりは言われた通り、雑音でザリザリいう無線でアイルトンにピットインのことを告げた。そして、タイムアタックの4週目、フィニッシュラインを通過するマシンにサインボードも念のために出す。
「むむむ、1分14秒79……親父のタイムからは5秒遅れだが、ラバーの乗ってないコース・コンディションを考えるとこんなもんだろうな」
桜田さんが嬉しそうに皆の方を向いた。
4人はサインポストからピットレーンを横切って、パドックへと足早に歩いて行った。
7
凄いよ、父さん、僕は改めてあなたを尊敬します! そして、このモンスター・マシンを生み出したオンダとマクラーレンの爺どもを呪ってやる!
そろそろと慎重に走り出した1週目では、最大のトラクションを掛けたマシンが、こんなにぐにゃぐにゃと柔らかいなんて絶対に分らないよ。
ミッションの回転軸が車体を貫いて縦配置な上、時計回りだから、左コーナー出口の加速で最大のパワーを掛けると、シャーシがコース外側に捩れるんだ。だから左回りのコーナーではテールがズルズルとアウトに膨れるんだぜ?
父さんはコーナー中でもアクセルワークでマシンをコントロールしていた(俗に言うセナ足?)って聞いたけど、そんなの僕には不可能だ!
このコースってあんまりテクニカルじゃないって聞いてたけど、じゃあ、テクニカルなコースってどんなんだよ!
この車でタイムを削るって、高い煙突の上に立って足元の壁を壊しながら下に降りてくる様なもんじゃないか。まったくクレージーさ。
1週目、全然だめだった。減速の時リアが暴れてよれよれさ。トラクションをコントロールしなくっちゃ!集中!
2週目、減速は旨く行くようになったけどクリッピングが甘い、修正しなくちゃ。
3週目、シケインはもっとコンパクトに……縁石に乗り上げるような積りで。ここは一発度胸だね?
4週目、ようやく及第点かな? でももう全身の筋肉が痙攣してるよ! 言われなくたってピットに戻るしかないよ。
僕は尾羽打ち枯らして、クールダウンしながらピットに戻った。
メカニックの人が何か言ってるよ? え? エンジン止めろって? あっ……ああ、忘れてた。メカニックに車を押してもらいながらパドックに入ったよ。
ヘルメットを脱いだらもう滝のような汗さ。5点式のシートベルトを外してもらって座席から抜け出そうとしたけど無理だった。力が入んないんだ。恥ずかしいけど2人掛りで引きずり出してもらって、パドックの隅のディレクター・チェアに座らせて貰ったんだ。
何かを口に突っ込まれてチューチュー啜ったよ。何だか分らなかったけどさ。
兎に角、僕のこのとんでもないクラッシックカー試乗体験は終了した。その感想は、『もう2度と乗るもんか』だった。
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