さよならと愛
「さよなら」
魔法使いハーニスは言った。
砂色のローブに身を包み、フードを深くかぶった彼女の内側は、まだほとんどが真っ黒である。
それでも、前よりほんの少しだけマシになった。
「さよなら、ハーニス」
そんな彼女に、ミルワナは寝台の上からお別れを言った。
ようやく彼女が床から起き上がれるようになったのは、つい先日のこと。
気がついた時には、全てが終わっていたのだから、ミルワナにしてみれば楽なことこの上なかった。
彼らは魔王を倒し、人の世界に帰って来たのである。
道の神を、最後まで維持できたことは、本当に奇跡だと彼女は思っていた。
ミルワナに、既に意識はなかったのだから。
あの後、彼女は王都にある聖騎士ロウンの屋敷に担ぎこまれていた。
道の神が、魔界から王都に道をつなげてくれていたようで、そこが一番都合がよかったらしい。
元々騎士や聖騎士を多く輩出している家系ということで、ミルワナは居心地が悪くなるほど立派な看護を、ここで受けることが出来た。
「さよなら、神子ミルワナ」
戦士リューイが、大きな手を差し出してくる。
いや、いまや勇者リューイだ。
魔王を倒したのだから、彼にはその尊称が与えられたのである。
そんな彼が選んだのは──ハーニスと生きる道だった。
これから、彼女のその身体を癒してゆくのだろう。
人目のあるところを彼女が望まなかったため、遠くの地に行くというのだ。
それを聞いたミルワナは、本当に泣いて喜んだ。
神子にあるまじき子供のように、わあわあと泣いたのである。
それが、一昨日のことだった。
だからこそ、いまこうして静かに「さよなら」が言えるのだ。
「さよなら、勇者リューイ。ハーニスを幸せにしてね」
彼女にとっての神は、この男だった。
彼の加護さえあれば、ハーニスはきっと生まれてきて良かったと思うだろう。
大団円ではないか。
これ以上の幸せな結末は、もはやないと思った。
あきらめなくて本当によかったと、ミルワナは心から思ったのだ。
「聖騎士ロウン、さよならだ」
「ええ、さっさとどこへでも行って、勝手に幸せになってください」
ミルワナとの別れの挨拶が終わったリューイが、ロウンに声をかけるが、その返答には明らかなる棘があった。
穏やかな男の言葉とは思えず、彼女ははっと彼らへと視線を向けたのだ。
「貴方たちが幸せにならないと、神子ミルワナがまた無茶をしますからね」
そんなロウンの鋭い視線が、彼女に飛んでくる。
ミルワナのこの体たらくを、彼はまったく良く思っていない。
それもそうだろう。
やむを得なかったとは言え、彼女は己の命を引き換えに、無謀なことをしたのだ。
その上、寝台から動けない日が長く続いたため、ずっと彼の世話になってしまった。
一番迷惑をかけているロウンには、本当に悪いと思っていたが、そのせいで彼らが仲たがいをするのは嫌だった。
「あの……お邪魔でないなら、後から追いかけていってもいい? 何か、私も役に立てるかもしれないし」
ミルワナは、一石二鳥の提案を言葉にしていた。
ここを出て行くことで、ロウンの生活も元に戻るし、ハーニスの幸福な姿を、少し離れたところからでも見守れるのではないかと思ったのだ。
「は?」
唖然とした声をあげたのは、ロウンだった。
「……」
リューイは、何の声も出さなかったが、ミルワナを見た後に、唖然としている聖騎士を見た。
そして。
ハーニスは。
言った。
「邪魔よ」
そう、だよねぇぇぇ。
寝台の上で、がっくりと彼女は肩を落とした。
そんなうまい話が、あるわけはないのだ。
二人きりの幸せを、ミルワナは邪魔してはならない。
それくらいは、やっぱり気を利かせるべきだった。
寝台でしょんぼりしていた彼女の側で、すっと砂色のローブが動いた。
気づけば、ハーニスがそこに跪いているではないか。
「神子ミルワナ。あなたが死ぬ時、私も死ぬ。死の加護のないあなたを、決して一人では死なさない」
いっそ棒読みとも思える単調な言葉を、彼女は早口で呪文のように呟いた。
そのまま、すぐに立ち上がってしまう。
「え?」
意味が分からずに、彼女が顔を上げた時には、既にハーニスは部屋の外に出るべく歩き出していた。
「余計なお世話ですよ、魔法使いハーニス」
その背中に、ロウンが強い声を投げつける。
リューイが、そんな声から彼女を守るように、ローブの背中を隠してしまうと。
二人は、扉を出て行ってしまった。
彼らを見送った後、ミルワナはまたじんわりと自分の目に、涙が浮かぶのを止められなかった。
最後に、ハーニスが言ってくれた言葉の意味が、ようやくにして彼女にまで届いたからである。
ミルワナは、死の神との契約を、めちゃくちゃにしたのである。
もう二度と、死の神を呼ぶことは出来ないのはいいとしても、かの神の不興を買ったということは、楽な死を決して迎えられないということだった。
あの日の恨みも込めて、さぞや死の神は、彼女を苦しめて殺すことだろう。
だが、その時がきたら、ハーニスが一緒に死んでくれるというのだ。
決してミルワナ一人を苦しめないと、彼女は誓ってくれたのである。
そんな嬉しいことを言われてしまっては、彼女は長生きをしなければならないではないか。
ハーニスの寿命が先に尽きてなお生きていれば、彼女はその約束を守らずに済むのだから。
全然届いていないわけではなかった。
ミルワナの気持ちは、彼女にちゃんと届いていたのだ。
それを噛み締めると、涙が次から次へと溢れてくる。
「言っておきますよ、神子ミルワナ」
寝台の上でうつむいて泣き続ける彼女の側に、聖騎士ロウンが跪く。
「貴女が死ぬ時、一緒に死ぬのはこの私です。貴女の命を救ったのですから、共に死ぬ権利は私にあるはずです」
そうして、非常に熱心な言葉と瞳で、奇妙な言葉を吐くのだ。
ミルワナは、涙が引っ込んでしまうほどの驚きと心配に包まれて彼を見つめた。
彼には、これまで多大な迷惑をかけ続けてきたというのに、死ぬ時まで迷惑をかけろというのか、と。
ミルワナが血を吐いた時、そんな恐ろしい姿だったにも関わらず、ロウンは彼女に口づけてくれたという。
戦士リューイがそうしたように、彼もまた己の中の力を、体液を通じて彼女に送ってくれたのだ。
そのおかげで、ミルワナは死から、すんでのところで逃れることが出来たのである。
人の世界に戻ってきた後も、何度も口づけてくれたと、この屋敷のおしゃべりな使用人たちに聞かされた。
彼女が目覚めるまで、昼夜を問わず側にいてくれ、力を分け続けてくれたという。
ミルワナにしてみれば、彼の献身的な看病に、どれだけお礼をいったところで報いることは出来ないだろう。
「そんな、聖騎士ロウン……もっと自分を大切にして」
それなのに、苦痛を伴う彼女の死にまでついてくるなど、もってのほかだった。
「それは、私の台詞です。言ったはずです。『私は、これからただの騎士になります』と。神の力なんかいりません。聖騎士なんてクソ食らえです」
とても早口で、とても強い口調で言葉が立て続けに目の前に並べられていく。
「私は、貴女を守ることの出来る人間になりたかったのです。私自身が、貴女の加護になりたかったのです」
優しく、ではなく、痛いほど強く手を握られる。
「神子……いいえ、ミルワナ。貴女を……愛しています」
青天の霹靂とは、まさにこのこと。
彼女は、呆然としたまま、ロウンの告白の前に硬直してしまったのだった。