第101話 影と戦乙女、最初の試練
第101話 影と戦乙女、最初の試練
帝政歴347年11月7日、午前6時38分。
帝国中央部、帝国軍特別編成基地。
十一月の朝は冷え込みが厳しく、訓練場を囲む針葉樹の枝には薄い霜が降りていた。夜明け前から活動を始めた整備兵たちが車両格納庫の扉を開き、軍用輸送車のエンジンを暖めている。遠くでは、基地の警備隊が交代する際の号令が響いていた。
レイブン・S・クロウは、第二兵舎の自室で制服の襟を整えていた。
鏡に映る黒い猫耳が、廊下から聞こえてくる足音に反応してわずかに動く。金色と黒色のオッドアイには、昨日までの疲労がまだ少し残っていた。
共同特別任務分遣隊〈SHADOW LADY〉が初めての共同訓練を終えてから、一夜が明けた。
帝国軍と連邦共和国軍の兵士たちが同じ訓練場に立ち、互いの装備や通信手順を確認した昨日の一日は、レイブンにとって想像以上に多くの課題を残していた。
同じ意味の命令でも、国によって伝え方が違う。
同じ用途の装備でも、操作方法が違う。
そして何より、互いに敵として戦ってきた記憶は、そう簡単には消えない。
レイブンは、机の上に置かれた訓練報告書を手に取った。
昨日の演習では、重大な事故こそ起きなかったものの、部隊の動きが何度も止まっていた。
共和国軍側の兵士が隊形変更の合図を誤解し、帝国軍側の兵士がそれに気づくまで時間が掛かった場面もある。
別の場面では、救護要請の伝達が遅れ、模擬負傷者の搬送開始が予定より遅くなっていた。
レイブンは、その記録を読み返した。
「……やっぱり、最初に直すべきなのはここかな」
彼は、通信手順に関する項目へ印をつけた。
その時、扉を叩く音がした。
「レイブン、起きてる?」
エリシアの声だった。
「起きてるよ。どうぞ」
扉が開き、共和国軍の制服を着たエリシア・L・ヴォルハラム少尉が顔を覗かせた。
金色の髪は丁寧にまとめられ、襟元には共和国軍の階級章が光っている。
「おはよう」
「おはよう、エリシア」
彼女は、レイブンの手元にある書類を見た。
「……また、朝から仕事?」
「昨日の記録を少し確認してた」
エリシアは、少しだけ眉を寄せた。
「あなた、昨日も遅くまで起きていたでしょう?」
「……うん」
「ちゃんと休まないと」
レイブンは、困ったように笑った。
「分かってるよ」
エリシアは、彼の顔をじっと見つめた。
「……本当に?」
「……本当に」
彼女は小さく息を吐き、それから微笑んだ。
「なら、朝食を食べに行きましょう。ガイルたちも待っているわ」
レイブンは頷き、書類を机へ置いた。
「うん。行こう」
午前7時12分。
帝国軍特別編成基地、第一食堂。
食堂では、帝国軍と共和国軍の兵士たちが朝食を取っていた。
昨日の共同訓練を経て、互いの顔を覚え始めた者も多い。まだ会話の少ない卓もあったが、以前のように制服の違いだけで席が分かれることは減っていた。
レイブンとエリシアが食事を受け取って席へ向かうと、ガイルが大きく手を振った。
「おーい、こっちだ!」
その隣には、ユリウス、フェリックス、エミールが座っていた。
共和国軍側のセルゲイ・オルロフ軍曹も、少し離れた席で食事を取っている。
レイブンはガイルの向かいへ腰を下ろした。
「おはよう、みんな」
「おう、おはよう」
ガイルはパンをちぎりながら、レイブンの顔を見た。
「……お前、また寝不足か?」
「少しだけ」
「部隊長になった途端、仕事人間になりやがって」
ユリウスが、呆れたように言った。
「お前が書類仕事を手伝えば、少しは楽になるんじゃないか?」
「俺に書類仕事を任せる気か?」
「任せられないなら、せめて邪魔をするな」
そのやり取りに、エミールが笑った。
レイブンも、思わず微笑んだ。
エリシアは紅茶を一口飲み、静かに口を開いた。
「今日は、昨日の問題点を確認するのよね?」
「うん。特に通信と救護の連携を重点的にやる予定」
ユリウスが頷いた。
「共通通信手順の改訂案は、昨夜まとめておいた」
フェリックスも続けた。
「偵察班の識別方法も、いくつか修正案がある」
ガイルは、少しだけ肩をすくめた。
「今日はまた地味な訓練になりそうだな」
レイブンは、静かに首を横に振った。
「……今日は、少し違うことをするつもりだよ」
ガイルが顔を上げた。
「……何?」
レイブンは、穏やかに微笑んだ。
「実際に、部隊として動いてもらう」
午前8時26分。
帝国軍特別編成基地、共同部隊準備室。
〈SHADOW LADY〉の隊員たちが、会議室に集まっていた。
壁面には基地周辺の演習区域を示した地図が掲げられ、机の上には訓練計画書が並べられている。
レイブンは、全員を見渡した。
「今日の訓練は、模擬救出任務です」
彼は、地図の一角を指した。
「演習区域内に、模擬負傷者が取り残されているという想定で行います」
共和国軍側の兵士たちが、地図へ視線を向けた。
「偵察班が位置を確認し、通信班が情報を共有する。その後、救護班が現場へ入り、模擬負傷者を安全な地点まで搬送します」
エリシアが続けた。
「途中には、通信障害や通行不能区画を想定した状況が設定されています。実際の戦場では、予定通りに進むとは限りません」
レイブンは頷いた。
「今日は、失敗しても構いません」
その言葉に、数名の兵士が少しだけ驚いた。
レイブンは、静かに続けた。
「ただし、失敗した理由を必ず確認してください。誰か一人の責任にするのではなく、部隊全体の問題として考えます」
ユリウスが頷いた。
「通信手順の不備も、今日の結果で洗い出せるはずだ」
エミールは、衛生班の資料を確認した。
「模擬負傷者の状態は、事前には分からないんだね?」
「うん。現場で判断してもらう」
ガイルが、少しだけ笑った。
「なるほど。今度はちゃんと頭を使えってことか」
フェリックスが静かに言った。
「お前には特に必要だな」
「何だと?」
室内に小さな笑い声が広がった。
レイブンは、少しだけ肩の力を抜いた。
「それじゃあ、準備を始めよう」
午前9時14分。
帝国軍特別編成基地、北部演習区域。
演習区域には、林地、舗装道路、廃屋を模した訓練施設、小さな沢が設けられていた。
部隊は、帝国軍と共和国軍の隊員を混合した班に分かれ、それぞれの担当位置へ移動している。
レイブンは、指揮所となる簡易テントの中で、地図と通信記録を確認していた。
隣にはエリシアが立ち、共和国軍側の連絡手順を確認している。
ユリウスは通信機材を点検し、ガイルとフェリックスは偵察班の準備を進めていた。
「……こちらNoX。各班、状況を報告してください」
レイブンが無線機へ呼び掛けた。
『こちらHound。偵察班、準備完了』
『こちらCIPHER。通信系統、確認完了』
『こちらValkyrie。救護班との連絡、確立』
レイブンは頷いた。
「了解。訓練を開始します」
午前9時21分。
偵察班が林地へ進入した。
ガイルは、訓練用の小銃を携え、周囲を警戒しながら進んでいた。
フェリックスは少し離れた位置から、地形と進路を確認している。
帝国軍と共和国軍の兵士たちは、事前に決めた共通の合図を使いながら移動していた。
しかし、最初の問題はすぐに発生した。
共和国軍側の兵士が、帝国軍式の停止合図を進行許可と誤認したのだ。
隊列の一部が動きかけ、ガイルが慌てて制止した。
「……待て!」
兵士たちは足を止めた。
ガイルは、すぐに無線機へ手を伸ばした。
「こちらHound。隊列内で合図の誤認が発生。現在、動きを停止して確認中」
レイブンは、指揮所で報告を受けた。
「こちらNoX。了解。原因を確認してから再開してください」
『了解』
エリシアは、地図へ視線を落とした。
「……やっぱり、合図の統一が必要ね」
レイブンは頷いた。
「うん。訓練後に修正しよう」
午前9時48分。
偵察班は、演習区域内の廃屋付近で模擬負傷者を発見した。
負傷者役の兵士は、建物の陰に倒れていた。
周囲には、通行不能を示す標識が設置されている。
フェリックスは、周囲を確認しながら無線機へ報告した。
『こちら偵察班。模擬負傷者を発見。位置は北部演習区域、第三訓練施設付近』
ユリウスが、指揮所で通信内容を記録した。
「NoX、位置情報を受信」
レイブンは頷いた。
「救護班へ伝達してください」
「了解」
しかし、その直後、演習用の通信障害が発生した。
救護班との無線交信が途切れ、位置情報が正常に伝わらなくなった。
ユリウスは、通信機材を確認した。
「……通信障害を確認。主系統が使用できません」
レイブンは、すぐに状況を確認した。
「予備系統は?」
「切り替え可能。ただし、共和国軍側の端末との接続確認が必要です」
エリシアが、すぐに口を開いた。
「共和国軍側の通信担当へ、予備系統への切り替えを指示するわ」
レイブンは頷いた。
「お願い」
エリシアは、別の通信端末を操作した。
「こちらValkyrie。共和国軍通信担当、予備系統への切り替えを実施してください」
『了解』
数分後、通信が回復した。
ユリウスは、安堵したように息を吐いた。
「……接続確認。通信再開」
レイブンは頷いた。
「救護班へ、位置情報を再送してください」
「了解」
午前10時17分。
救護班が、模擬負傷者のいる地点へ到着した。
エミール・シュナイダー伍長は、負傷者役の兵士へ近づき、状態を確認した。
訓練用の負傷設定は、下肢の骨折と軽度の意識混濁だった。
「……搬送には担架が必要だね」
共和国軍側の衛生兵が頷いた。
「固定処置を行います」
エミールは、彼と協力して模擬処置を進めた。
帝国軍と共和国軍では、衛生装備の配置や処置手順に違いがあった。
最初は少し戸惑いもあったが、互いに声を掛け合いながら作業を進めていく。
やがて、模擬負傷者は担架へ固定された。
しかし、帰路には別の問題が待っていた。
予定していた搬送路が、演習上の通行不能区画に指定されていたのだ。
エミールは、無線機へ手を伸ばした。
「こちら救護班。予定経路が使用不能。代替経路を要請します」
レイブンは、地図を確認した。
周囲には複数の迂回路があった。
ただし、どれも距離や地形条件が異なる。
エリシアが、地図の一角を指した。
「……ここなら、車両が近くまで入れるわ」
レイブンは、少しだけ考えた。
「……ただ、途中に狭い区間があるね」
「ええ。でも、担架搬送なら通れるはずよ」
ユリウスが、通信記録を確認した。
「その経路なら、偵察班がすでに安全確認を済ませています」
レイブンは頷いた。
「分かった。救護班へ代替経路を伝えてください」
「了解」
こうして、救護班は迂回路を使用し、模擬負傷者を搬送した。
午前11時06分。
模擬負傷者の搬送が完了した。
予定より時間は掛かったものの、重大な安全上の問題は発生しなかった。
レイブンは、訓練終了を宣言した。
「こちらNoX。全班、訓練終了。指定地点へ集合してください」
各班から、了解の応答が返ってきた。
レイブンは、通信機を置いた。
エリシアは、少しだけ微笑んだ。
「……初めてにしては、悪くなかったわね」
レイブンは頷いた。
「うん。でも、課題は多いね」
「ええ」
彼女は、訓練記録を確認した。
「合図の統一、通信系統の切り替え、搬送経路の判断……」
レイブンは、静かに微笑んだ。
「……一つずつ直していこう」
午後1時24分。
帝国軍特別編成基地、共同部隊準備室。
訓練後の反省会が始まった。
帝国軍と共和国軍の兵士たちが、机を囲んで座っている。
レイブンは、午前中の訓練記録を確認しながら口を開いた。
「……今日は、いくつか問題が起きました」
室内が静かになった。
「でも、どれも今のうちに見つけられてよかったと思っています」
ガイルが頷いた。
「確かに。実戦だったら、笑い話じゃ済まなかったな」
フェリックスも、静かに言った。
「合図の誤認は、すぐに修正すべきです」
レイブンは頷いた。
「うん」
ユリウスが資料を開いた。
「通信については、予備系統への切り替え手順を統一したい。今のままだと、共和国軍側の端末との接続に時間が掛かる」
エリシアが続けた。
「共和国軍側の通信担当とも相談して、共通の手順書を作りましょう」
レイブンは頷いた。
「お願い」
エミールは、衛生班の記録を見ながら言った。
「搬送手順も、装備の違いを考慮して調整した方がいいね」
共和国軍側の衛生兵が頷いた。
「共和国軍の担架と帝国軍の固定具では、少し形状が違います」
レイブンは、静かに考えた。
「……なら、共同部隊用の共通装備を検討しよう」
ヘルガ・ノイマン軍曹が口を開いた。
「工兵科として、装備の互換性を確認します」
「ありがとう」
レイブンは、全員を見渡した。
「……今日の訓練で、一つ分かったことがあります」
兵士たちが、彼へ視線を向けた。
「俺たちは、まだ完全な部隊じゃありません」
室内が静かになった。
レイブンは続けた。
「でも、互いの違いを理解しようとすることはできています」
エリシアは、静かに頷いた。
「……そうね」
レイブンは、穏やかに微笑んだ。
「だから、これからも続けていきましょう」
午後4時18分。
帝国軍特別編成基地、司令部会議室。
レイブンとエリシアは、ヴァイス中尉とともに、基地司令部へ訓練結果を報告していた。
基地司令は、提出された資料を確認しながら頷いた。
「……初回としては、妥当な結果だな」
レイブンは敬礼した。
「ありがとうございます」
基地司令は、資料を机へ置いた。
「ただし、共同部隊としての運用能力を確認するには、まだ時間が必要だ」
「承知しています」
エリシアも頷いた。
「共和国軍側でも、必要な改善を進めます」
基地司令は、二人を見た。
「よろしい」
そして、別の書類を取り出した。
「……ところで、君たちに次の任務を伝える」
レイブンは、少しだけ表情を引き締めた。
「……次の任務、ですか?」
「ああ」
基地司令は、書類を机へ置いた。
「共同部隊〈SHADOW LADY〉に対し、初の対外任務を命じる」
エリシアも、真剣な表情になった。
「……内容は?」
基地司令は、地図を広げた。
そこには、帝国と共和国の国境付近に位置する小さな町が記されていた。
「国境地域に、戦争中の未処理弾薬と放棄された軍需物資が残されている」
レイブンは、地図へ視線を落とした。
「……不発弾の処理ですか?」
「それも含まれる。ただし、主目的は現地の安全確認と、住民の避難支援だ」
基地司令は続けた。
「帝国軍と共和国軍の双方が関与した戦闘地域であるため、どちらか一方の軍だけでは対応が難しい」
レイブンは、静かに頷いた。
「……だから、共同部隊が派遣されるんですね」
「そうだ」
基地司令は、二人を見た。
「現地には、まだ戦争の影響を受けた住民が残っている。彼らにとって重要なのは、帝国軍か共和国軍かではない」
少しだけ間を置き、続けた。
「……安全に暮らせるかどうかだ」
レイブンは、静かに頷いた。
「……分かりました」
エリシアも、真剣な表情で答えた。
「共和国軍側も協力します」
基地司令は頷いた。
「よろしい。出発は明朝。詳細な作戦計画は、今夜中に提出すること」
「了解しました!」
二人は敬礼した。
午後5時42分。
帝国軍特別編成基地、共同部隊準備室。
レイブンは、机の上に広げた地図を見つめていた。
国境付近の小さな町。
戦争の傷跡が残る地域。
そこへ、帝国軍と共和国軍の混成部隊として向かう。
これが、〈SHADOW LADY〉の最初の対外任務になる。
エリシアは、隣で資料を確認していた。
「……レイブン」
「何?」
「……少し、緊張している?」
レイブンは、少しだけ考えた。
「……うん」
エリシアは、穏やかに微笑んだ。
「私も」
レイブンは、彼女を見た。
「……エリシアも?」
「ええ」
彼女は、地図へ視線を落とした。
「戦闘任務とは違う意味で、難しいと思うわ」
レイブンは頷いた。
「……そうだね」
エリシアは、静かに続けた。
「現地の人たちが、私たちをどう見るか分からないもの」
レイブンは、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……だからこそ、ちゃんとやりたい」
エリシアは、彼を見つめた。
「……ええ」
レイブンは、地図の上に指を置いた。
「戦争が終わったって言っても、まだ危険な場所が残ってる」
彼は、静かに続けた。
「……そこに暮らす人たちが、安心して帰れるようにしたい」
エリシアは、穏やかに微笑んだ。
「……あなたらしいわ」
レイブンは、少しだけ照れくさそうに笑った。
「……そうかな」
「ええ」
彼女は、そっと彼の手へ触れた。
「……一緒に頑張りましょう」
レイブンは、静かに頷いた。
「……うん」
そして、二人は再び地図へ向き直った。
帝国軍と共和国軍。
異なる二つの国家に所属する軍人たち。
その小さな共同部隊が、初めて国境の町へ向かおうとしていた。
敵を倒すためではなく、人々を守るために。
それは、長い戦争を経験した彼らにとって、新たな意味を持つ任務だった。
帝政歴347年11月7日。
共同特別任務分遣隊〈SHADOW LADY〉は、初の対外任務を受領した。
戦争の終結を、ただの書類上の事実で終わらせないために。
かつて敵同士だった兵士たちは、今度は同じ町の平和を守るため、肩を並べて歩み始める。




