エースの誕生 その12
「ただいま」
小さく言った俺は、部屋に向かわず庭に出ようとしてリビングを通る。
ふとテーブルの上に夕食の用意がしてあるのを見て、母がいない事に気がついた。
言いようのない不安を感じたが、寺の用事など今はないはずだと思い直して首を左右に振った。
陰鬱な気を払拭するように庭へ出て、大島桜の木に近づく。
いつの間にか、固い蕾が宿っていた。
焦げて無惨になった木々を見た後だからか、生命の息吹を感じて心が洗われるようだった。冬の風が庭にも吹き込んでいるが、俺はしばらくその場にとどまる。
日が完全に暮れて輪郭がぼやけるまで、その場を動く事はなかった。
完全に暗くなってリビングへ戻ってくると、食事の横にメモが置いてある事に気がついた。
「温めて食えとか、そんな事書いてるのか?」
そう呟きながらメモを開けたが、そこには何の記載もないただの白紙だ。
「?」
なんだと思いながらも、メモをその場に置いて自室へ向かった。
「お疲れ様です、武蔵さん」
これは夢だ。
誰かに声をかけられた俺は、すぐにそれに気がついた。
さぁっと視界が開け、見知らぬ部屋に立っていて、目の前にはあの怨霊付きによく似た、しかしもっと大人の女が立っていてこちらに微笑みかけている。その人は黒い服に黒いエプロンをしており、その背後には何も連れていない。
「エ、エース!」
驚愕した声にちらりとそちらを見るが、見知らぬ女だった。
エースという称号だろうか。どうやら自分の事らしいが、意味が分からない。それよりも今俺が掴んでいる、これをどうにかしたい。
「ん、見学者? ごめん、ちょっとどいてくれる?」
重くて限界だった。俺を見て驚愕の顔のまま固まっている女の腕を押して、横に移動させた。その動作の流れでソファーに持っていた人物投げつけた。
ソファーがぼすっと音をたて、くたびれたスーツ姿の男がそこで伸びている。
「亜槐さんも無事でよかったですね」
怨霊付きによく似た女はそう言って微笑んだが、亜槐と呼ばれた人物からの反応はなかった。
「そいつ、たいぶ喰われてたぜ。クイーンの誰だっけ、あのヒーラーみたいな人、呼んでやったほがいいかもな」
ちょっとかっこつけて言う自分が、なんだかおかしかった。都会に出たらこんな風に話してみたいと思っていたような言葉遣いだ。
「そうですね。すぐに手配します。今、こちらに大開さんが向かわれていますので、連れて行ってもらいましょう。武蔵さん、何か召し上がりますか?」
俺は仕事終わりのせいか、はぁーと大きく息を吐き出した。そのまま天を見て、考えるふりをしながら返答した。
「ほうじ茶といつものアレ、ある?」
自分で言っていてなんだが、アレってなんだ?
しかし女は、くすりと笑うと、ありますよと言ってもう一人の女に目配せをした。
「アレって何?」
そう言いながら二人の女がキッチンに消える。
スライドドアが閉められ、中から”激辛のインスタントラーメン”だと聞こえてきた。
なるほど、いい選択だと思う。
中からぽそぽそと話し声が聞こえている。
仕事を教えているようだ。
しばらくまっていると、スライドドアが空いて二人が出てくる。怨霊付きだった女がトレーに、お茶とインスタントラーメンを持って、ソファーに寝そべりそうな俺に向かって言った。
「武蔵さん、そちらで食べたらオーナーに怒られますので、こちらまでご移動願います」
仕方ないと立ち上がろうとした俺は、体がひどく重く感じてのろのろ動いている。
足を引き摺るようにして移動し、女が指定した席についた。
「いただきます!」
パッケージからして美味しそうだと思い、さっそく蓋を開けて中身を見る。
真っ赤なスープから立ち上る、スパイシーな香りが店内に広がっていることだろう。
「はー、生き返るー」
「落ち着いたら、きちんと栄養摂って下さいね。それから明日は予定通りオフで大丈夫です。明後日ですが、栃木の案件がまだ解決していない場合にのみ、現場へ向かって下さい」
夢中で食べながら、業務報告のような事をされていると分かり、合間に頷いて返答した。
その俺の様子を、もう一人の女がキラキラした目で見ている気がしたが、気にせずラーメンをすする。
「この後はどうされますか?」
元怨霊付きの女が聞いてくる。
「礼さん出てきた?」
自分の口が言っている内容が、さっきからさっぱり分からない。
それでも女は首を振って、まだだと答えた。
「礼さんが潜ってるの、白紙委任状?」
また意味不明の言葉。
疑問に思いつつもスープを飲み干した。
「いえ、光の帝国です」
女がさっと空の容器を下げながら答える。
「へえ、珍しい」
「今日で7日目なので鷲木さんの代わりに」
「ああ、なるほど。ここの予約は?」
「本日はないので待たれますか?」
「そうだな。寝ながら待つわ」
俺は手近なソファーに寝そべって目を閉じた。
夢の中の俺は、器用に本当にそのまま寝た。
騒々しい音が継続して続き、数人の出入りを閉ざした瞳の中で感じていた。
どうやら元怨霊付きの女を、どうにかして負かしてやろうと、もう一人の女が画策していたようだ。
しかしことごとく失敗したのか、当人にも理解できない出来事が続いているのか、動揺した女の声で意識が浮上してきた。
変な夢だと思いながらも、会話が明快になってくる。
「行ってきてください。一人で、じっくり考えたいので」
負けを認めて、脱力したような声色だ。
「じゃ、店番よろしく。どのみち冬香は3時間使えないから、若月が来たら説明しといて」
これは男の声。ふっと目を開けて様子を見る。
「では、行ってきますね」
元怨霊付きの女は、巻き毛の長身の男と部屋を出ていった。
見送っていた女は、すべての音が消えると盛大に息を吐き出した。
「はぁ……」
「大きなため息。魂こぼれ出るぞ」
俺はそう言って女に声をかけた。すると女は飛び上がってこちらを見る。
「”剱 冬香”は不可侵だ。これだけは絶対に守った方いい」
自分でそう言いながら、なんの事だと思う。
体を起こそうと動くと、驚くほど怠い。
「あんたが何に必死になってるのか知んねえけど、トップ2が関わっている人物だ。悪戯に手を出すのはお勧めしない」
膝に両肘を乗せ、前に体重をかけて楽な体勢を探す。
女はその場で脱力した。
「はい。それはもう、ひしひしと感じています」
そう言うと床に手をついてしまった。
「ま、あんたみたいなのは、男にも女にも時々いるんだけどな」
「そう、なんですか?」
「見えないやつらは怖くないんだろ。まぁそれ以前に、礼さんの態度だけでも分かりそうなもんだけどな」
あの男の事だろうか。
「彼女に感謝するんだな。あんた、気に入られたんだと思うぜ」
俺がそう言うと、女は変な首の傾げかたをしてこっちを見た。
「誰が、誰に?」
「あんたが、”剱 冬香”に」
「まさか! 嫌われてもいいと思って来たのに。それがどうやったら気に入られるって言うのよ」
俺は大きな欠伸をして、一度起こした体を横たえる。
「気に入った理由なんか本人にしか分からんだろう」
「冬香さんって何者なんですか」
「……答えられない」
「不可侵ってのも、教えてもらえないですか?」
「……」
「どうしてあのお2人が守ってるのかも、何故守られているのかも、教えてもらえないんですか」
横たえた体を再び起こした俺は、女の方を向いて大きくため息を漏らす。
「どうやら認識が違うようだから、これだけは教えてやろう。厳密に言うと、”剱 冬香”を護りたいのは”安堂寺 礼”だ。そしてオーナーは、”剱 冬香”から従業員を、あるいは世界を守っている」
口をぽかんと開けたまま、俺を見る女。




