【第8話】 反作用の法
朝。
街は静かだった。
いや、“静かに見える”だけだった。
実際は、誰もがスマホの中で叫び続けていた。
《正義ポイント制度、正式施行》
《通報数に応じて報奨金》
《SNS発言に正義レベルが表示》
画面の中、誰もが正義を名乗っていた。
「誰かのために」──その裏に、数字があった。
“いいね”が“正義”に名前を変えただけだ。
(……結局、承認が形を変えただけじゃないか。)
画面をスクロールすると、見慣れた文面が並ぶ。
『今月の正義ランク、全国15位でした!』
『通報だけで人生変わるってスゴくない?』
『次こそ1位になれるように頑張ります!』
画面の向こうの笑顔は、どれも同じだった。
どの投稿も、どのコメントも、どのバッジも、誇らしげに輝いている。
(何が“正義”だ。……この中に本気で世の中を良くしたいという人間が、どれほどいる?)
外を見れば、人々は互いの顔をじっと見ている。
相互監視。
疑いと誇りが同じ目の奥で混ざり、信頼は失われていった。
通報アプリの通知音が、街のあちこちで鳴っている。
その音が、いつのまにか「良いことをした」という証になっていた。
(欲があるのは当たり前だ。
でも、“正義”という名を利用した瞬間、
それはもう欲の域を超えている。)
ため息が漏れた。
指先が震える。
胸の奥が冷えていくのに、頭の奥では熱が帯びていく。
机の上、法学書が静かに開かれていた。
照明もつけず、ページの余白だけが白く浮かぶ。
(人は法で守りきれない⋯。
法は、新たな歪んだ欲を育ててしまう。)
外の音が、ふと遠のいた。
車のエンジン音がすれ違いざまに消え、誰かの会話が途中で途切れた。
世界が、息を止めたように静まる時間があった。
(……また、だ。)
頭の奥で、火花が散った。
指先に焼けるような熱が走る。
それでも、手は止まらなかった。
ページの余白に、赤が浮かび上がる。
一行だけ、明確に刻まれた。
第百五条 正義の名による裁きを禁ず。
──カンッ。
小鉄が少し離れた場所から、薫を見つめていた。
その目がゆっくりと細まり、
世界の音が、ふっと止まった。
テレビの画面が一瞬だけノイズを走らせた。
《正義ポイント上位者、不当通報で処分》
《称賛ランク制度の一部見直しへ》
アナウンサーの声がわずかに震えている。
「……正義を名乗る行為そのものが、社会的議論を呼んでいます」
外の空気がわずかに震えた気がした。
世界が、またひとつ形を変える。
それが救いか、崩壊の始まりかは──まだ、誰にも分からなかった。




