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【第5話】 理不尽への裁き

朝。

薄い光が壁をなぞる。

テレビの音だけが、部屋に残っていた。


《交差点の事故から一週間。加害者、地域活動を再開》

映った笑顔が、胸を焼く。


白波誠一。

お前の顔と名前は、一日たりとも忘れたことはない。


尻尾をまっすぐピンと立て、足元に頭を擦り付けながら、ゴロゴロと喉を鳴らした。

その音だけが、現実だった。


――法に問いを投げる時が来た。



ベンチの上に、法学書。

白紙の余白が、呼吸しているように見える。

指を置く。

あの日と同じ感触。

法の文字が、脈打つように浮き上がる。

頭の奥で、法廷で響いたあの声が蘇る。


(……この世は法がすべて)


薫は、静かに息を吸い込み、なぞり始めた。

「理不尽な法なら、俺が壊す。」


赤い線が走り、文字がゆっくりと浮く。

ページの奥で、法文が静かに書き換わった。


【第四二条】報復の権利

法によって裁かれない罪が存在するとき、

被害者、またはその遺族は、

裁判などの手続きを経ることなく、

その代わりとして“裁き”を行う権利を持つ。


【第四二条 附則①】執行の範囲

この“裁き”には、被害の回復を目的とするあらゆる手段を用いることができる。

その行為がたとえ命を奪うものであっても、

「正当な執行」として、法はこれを否定しない。


【第四二条 附則②】責任能力の再定義

この条の施行にともない、

刑事責任能力を判断する基準は新たに定められる。

従来の基準に基づいて無罪とされた事件についても、

新しい基準によって再評価を行うことができる。


指を離す。


――カンッ。


音が世界を裂いた。

赤が視界を染め、空気が震える。

自分の抜けた毛で遊んでいた小鉄が、不意に目を細めた。

部屋の空気が、ほんのわずかに変わった気がした。



三日後。

速報が流れる。


《刑事責任の基準を再定義 過去の無罪判決を再評価へ》


ニュースキャスターの声は淡々としていた。

だが、その裏で、すべては動き始めていた。


――再評価通知。

封筒が、あの男の手に渡る。

カメラの前で、彼の指が震えた。

紙を開いた瞬間、顔色が変わる。


……なぜだ……! もう終わったはずだ……あの裁判は……!


報道陣のフラッシュ。

白い光が、彼の額を照らした。

その夜。

執行は始まった。



取り調べ室。

照明が白すぎる。

机の上に、三枚の紙。

“報復の権利”

“執行の範囲”

“責任能力の再定義”。


法務官が読み上げるたび、

男の肩が一度ずつ揺れた。


「あなたの行為は、責任能力ありと再認定されました」

「これにより、執行手続きが適用されます」


椅子がきしむ。

息が荒くなる。


「ま、待ってくれ……! 俺は……心神喪失だぞ……無実なはずだろ……ッ!」


その一言で、薫の視界が静かに染まった。

ガラス越しに、その光景を見ていた。

心拍の音が、わずかに早まる。


(……やはり、利用していたんだな。)


連鎖するように、別の条文が動いた。

執行の範囲が、静かに拡張されていく。

男の名前がSNSに流れる。

住所、職場、家族構成、

誰かの手によって晒され、拡散されていく。


町の人間が、罵声を上げながら石を投げつける。

映像の中で、雨のように飛ぶ石が光を弾いた。

画面の向こうでは歓声が上がり、拍手が波のように広がっていく。


挿絵(By みてみん)


夜。

拘束室。

冷気が肌を刺す。

男は声にならない声をあげた。

眠ることも、立つこともできず、

誰かの足音に怯え続ける。

水を求める唇が、何度も動く。


鉄格子の向こうで、男が縋るように叫んだ。

「頼む……誰か……助けてくれ……」


薫はゆっくりと近づく。

「お前は法によって守られただろ。」

一歩、踏み出す。

「じゃあ今度は、法に裁かれる番だ。」


男の喉が震える。


「な、なんだよ……お前、誰だ……」


薫の声は低く、静かに落ちた。


「……“報復の権利”って、知ってるか?」


その言葉に、男の瞳が見開かれる。

声にならない呻き。

鉄の匂いが、冷気とともに流れた。


荒く吐き出されていた息が、次第に弱く、細くなる。

恐怖も、抵抗も、やがて空気に溶けた。

鉄格子の向こうは静まり返り、

残ったのは、重く沈むような静寂だけだった。


薫は視線を動かさず、その終わりを見届けた。

胸の奥に、安堵が流れる。

長く、重く沈んでいた何かが、やっと動いた気がした。


……終わった。


けれど、心は静かにならない。

波が引いても、砂の奥には熱が残るように。

息を吐くたび、胸のどこかがまだ痛む。


最初から、分かっていた。

これを果たしても、満たされることはないと。

だが――それでも、やらないという選択肢は、どこにもなかった。

あの日から、ここまで来る道に“別の道”なんて、最初から存在しなかった。


誰に理解されなくてもいい。

これは、俺だけの裁きだ。

そして、もう二度と――

こんな思いを、誰にもさせたくない。

だから、止まらない。


怒りを終わらせるために、

俺は怒りそのものになる。


> 「起こってからでは遅い。

 そうなる前に、裁く。」




小鉄は静かに足元に近づき、

いつもよりゆっくりと瞬きをした。


薫は、ゆっくりと立ち上がる。

瞳の奥に、冷たい光。

秒針が、一拍早く動いた。


世界は、また書き換えられ始めていた。

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