【第5話】 理不尽への裁き
朝。
薄い光が壁をなぞる。
テレビの音だけが、部屋に残っていた。
《交差点の事故から一週間。加害者、地域活動を再開》
映った笑顔が、胸を焼く。
白波誠一。
お前の顔と名前は、一日たりとも忘れたことはない。
尻尾をまっすぐピンと立て、足元に頭を擦り付けながら、ゴロゴロと喉を鳴らした。
その音だけが、現実だった。
――法に問いを投げる時が来た。
◇
ベンチの上に、法学書。
白紙の余白が、呼吸しているように見える。
指を置く。
あの日と同じ感触。
法の文字が、脈打つように浮き上がる。
頭の奥で、法廷で響いたあの声が蘇る。
(……この世は法がすべて)
薫は、静かに息を吸い込み、なぞり始めた。
「理不尽な法なら、俺が壊す。」
赤い線が走り、文字がゆっくりと浮く。
ページの奥で、法文が静かに書き換わった。
【第四二条】報復の権利
法によって裁かれない罪が存在するとき、
被害者、またはその遺族は、
裁判などの手続きを経ることなく、
その代わりとして“裁き”を行う権利を持つ。
【第四二条 附則①】執行の範囲
この“裁き”には、被害の回復を目的とするあらゆる手段を用いることができる。
その行為がたとえ命を奪うものであっても、
「正当な執行」として、法はこれを否定しない。
【第四二条 附則②】責任能力の再定義
この条の施行にともない、
刑事責任能力を判断する基準は新たに定められる。
従来の基準に基づいて無罪とされた事件についても、
新しい基準によって再評価を行うことができる。
指を離す。
――カンッ。
音が世界を裂いた。
赤が視界を染め、空気が震える。
自分の抜けた毛で遊んでいた小鉄が、不意に目を細めた。
部屋の空気が、ほんのわずかに変わった気がした。
◇
三日後。
速報が流れる。
《刑事責任の基準を再定義 過去の無罪判決を再評価へ》
ニュースキャスターの声は淡々としていた。
だが、その裏で、すべては動き始めていた。
――再評価通知。
封筒が、あの男の手に渡る。
カメラの前で、彼の指が震えた。
紙を開いた瞬間、顔色が変わる。
……なぜだ……! もう終わったはずだ……あの裁判は……!
報道陣のフラッシュ。
白い光が、彼の額を照らした。
その夜。
執行は始まった。
◇
取り調べ室。
照明が白すぎる。
机の上に、三枚の紙。
“報復の権利”
“執行の範囲”
“責任能力の再定義”。
法務官が読み上げるたび、
男の肩が一度ずつ揺れた。
「あなたの行為は、責任能力ありと再認定されました」
「これにより、執行手続きが適用されます」
椅子がきしむ。
息が荒くなる。
「ま、待ってくれ……! 俺は……心神喪失だぞ……無実なはずだろ……ッ!」
その一言で、薫の視界が静かに染まった。
ガラス越しに、その光景を見ていた。
心拍の音が、わずかに早まる。
(……やはり、利用していたんだな。)
連鎖するように、別の条文が動いた。
執行の範囲が、静かに拡張されていく。
男の名前がSNSに流れる。
住所、職場、家族構成、
誰かの手によって晒され、拡散されていく。
町の人間が、罵声を上げながら石を投げつける。
映像の中で、雨のように飛ぶ石が光を弾いた。
画面の向こうでは歓声が上がり、拍手が波のように広がっていく。
夜。
拘束室。
冷気が肌を刺す。
男は声にならない声をあげた。
眠ることも、立つこともできず、
誰かの足音に怯え続ける。
水を求める唇が、何度も動く。
鉄格子の向こうで、男が縋るように叫んだ。
「頼む……誰か……助けてくれ……」
薫はゆっくりと近づく。
「お前は法によって守られただろ。」
一歩、踏み出す。
「じゃあ今度は、法に裁かれる番だ。」
男の喉が震える。
「な、なんだよ……お前、誰だ……」
薫の声は低く、静かに落ちた。
「……“報復の権利”って、知ってるか?」
その言葉に、男の瞳が見開かれる。
声にならない呻き。
鉄の匂いが、冷気とともに流れた。
荒く吐き出されていた息が、次第に弱く、細くなる。
恐怖も、抵抗も、やがて空気に溶けた。
鉄格子の向こうは静まり返り、
残ったのは、重く沈むような静寂だけだった。
薫は視線を動かさず、その終わりを見届けた。
胸の奥に、安堵が流れる。
長く、重く沈んでいた何かが、やっと動いた気がした。
……終わった。
けれど、心は静かにならない。
波が引いても、砂の奥には熱が残るように。
息を吐くたび、胸のどこかがまだ痛む。
最初から、分かっていた。
これを果たしても、満たされることはないと。
だが――それでも、やらないという選択肢は、どこにもなかった。
あの日から、ここまで来る道に“別の道”なんて、最初から存在しなかった。
誰に理解されなくてもいい。
これは、俺だけの裁きだ。
そして、もう二度と――
こんな思いを、誰にもさせたくない。
だから、止まらない。
怒りを終わらせるために、
俺は怒りそのものになる。
> 「起こってからでは遅い。
そうなる前に、裁く。」
小鉄は静かに足元に近づき、
いつもよりゆっくりと瞬きをした。
薫は、ゆっくりと立ち上がる。
瞳の奥に、冷たい光。
秒針が、一拍早く動いた。
世界は、また書き換えられ始めていた。




