【第3話】 群衆の法
数日が経った。
けれど、胸の熱は冷めなかった。
むしろ、あの日よりも静かに、深く燃えていた。
帰りの電車。
吊り革越しに見えたニュースの見出しが、俺の足を止めた。
《いじめ動画拡散 教師が停職処分に》
(……またSNSかよ。ほんとくだらねぇ。)
画面には、叱責する教師の短い動画。
数秒の切り抜きに、群衆が群がっていた。
「体罰」「教育の闇」——。
正義を気取ったコメントが並ぶ。
だが、その裏には別の記事があった。
《同級生証言「動画は生徒が仕掛けた」》
——切り取られた真実。歪められた善意。
「……なるほどな。」
空気が裁きを決める。
そして、それがこの国のもうひとつの“法”だ。
だったら、その法を、俺が正す。
あの日の“カンッ”が、どこかで蘇る。
──よし、試してみるか。
◇
帰宅後、机に広げたのはあの法学書。
今度は“報道の自由”の項を開く。
いつの間にか、誰もが報道者になった。
だがその自由が、どれだけの人間を殺した?
赤い跡が、まだかすかに残っている。
指でゆっくりとなぞる——
──カンッ。
電流が走った瞬間、隣で丸くなっていた小鉄が、ふっと目を細めた。
ただ、同じ空気を共有しているように感じた。
脳の奥で何かが書き換わる感覚。
紙の文字が、世界の一部を押し戻すように震えた。
◇
翌朝。
通勤途中のコンビニ前に、人だかりができていた。
《速報:いじめ動画 虚偽投稿の疑いで生徒を聴取》
《停職処分の教師、復職へ》
さらに追記が流れる——
《重大な虚偽拡散として、関与した生徒に懲役刑を適用(未成年例外の特例)》
周囲の通勤客が口々に言う。
「まさか、学生に懲役までいくのかよ」
「でも、真実なら仕方ないか。」
(……やっぱり、そうだ。)
……ハハハッ、確定だ。
ニュースの声が頭の中で反響する。
政府は、ネット上の悪質な虚偽拡散を「公共秩序への重大な加害」と位置づける新条項を急遽施行したらしい。
つまり、単なる書き込み一つでも、組織的・重大な拡散行為と認定されれば実刑に問える——という方向だ。
いまや、個人の発信も“報道”のように扱われる。
画面の向こうで語る誰かの言葉が、国家のニュースより速く、深く、人を殺す時代だ。
群衆の“正義”が、一夜にして法の文字に変わる。
昨日まで炎を投げていた手で、今日は拍手を送っている。
許すでも、悔いるでもない。
ただ次の炎を探しているだけだ。
その循環に、吐き気がした。
(いつまでも法に守られてると思うなよ。)
胸に、冷たい確信が沈む。
正義は俺の手の中で動く。
今だけは、疑いはない。
◇
夜。
玄関の鍵を開ける音が、やけに響いた。
「……ただいま、小鉄。」
小鉄が尻尾をまっすぐ立て、足元にすり寄る。
鳴かない。
その沈黙が、やけに心地よかった。
部屋に漂う静寂の中、胸の鼓動だけが確かな音を刻んでいる。
(……これでやっと、始められる。)
秒針が、一拍だけ早く動いた気がした。




