【第2話】 正義の声
朝。
ぬるくなったごはんの湯気が、まっすぐ天井に消えていく。
「おい、早く食べないと冷めるぞ」
誰に言うでもなく、つぶやいた。
テーブルには三膳の箸。自分の分と、あと二人分。
「……いただきます。」
味はする。けど、温度も、香りも、どこか遠い。
◇
スマホのニュースが目に入る。
《デマ拡散で炎上 被害を受けた店舗、営業停止に》
画面には笑顔で店先に立つ男性の写真と、燃え盛るコメント欄のスクリーンショット。見出しの下には、小さく店の事情が並ぶ——。店は一夜にして営業を止め、客足は戻らず、借金が膨らんだ。
“投稿者は特定されず、捜査は打ち切りに。”
その一文が、ニュースの下に淡く光っていた。
“表現の自由”と“個人情報保護”——
どちらも、人を守るためにあるはずの言葉。
だが、その「自由」と「保護」によって、
一人の人間の生活が壊れ、家族が崩れ落ちたという現実がそこにあった。
どこまで保護するのか。
その境界を決められない社会が、いちばん危うい。
ふと、棚に置かれた古びた一冊が目にとまる。事件のあと、衝動的に買った法学の本だ。
「法は人を守るためにある」
——その一文を信じたかった。
本を開く。
《第二十三条 表現の自由》
文字が、まるで自分をあざ笑うように見えた。
「人の人生壊しておいて、裁けないのかよ……」
ぼそりと吐き捨て、
そのまま“表現の自由”の文面を指でなぞる。
ページの一行が、じわりと赤く染まった。インクが脈を打つように浮き上がり、わずかに震える。
──カンッ。
乾いた音が、耳の奥で炸裂した。脳の奥を走る電流とともに、心臓の裏を、焼けるような細い針でゆっくりなぞられたような痛みが走る。
「っ……!」
指先が痺れ、全身が一瞬だけ硬直する。意味そのものが動いた感覚。恐る恐るページを閉じた。何も起きなかった
——その時は、そう思った。
その直後、足元で小鉄が不意に目を細めた。
ほんの一瞬だけ、異質な空気が差し込む。
◇
翌朝。出勤途中。
コンビニ前の大型モニターに人だかりができている。
《速報:SNS誹謗中傷 被告人に死刑判決》
昨日見た、炎上事件。無罪だったはずの男が、今は“死刑”として報じられている。
画面下の赤いテロップ。
《逆転死刑 SNS発信の責任を重罪と認定》
(そんな法律……あったか?)
不意に、あの“カンッ”が頭の奥で疼いた。
音ではない。痛覚だけの記憶。
胸の裏で感じた、焼けるような針の感触が蘇る。
胸の中のざわめきが形を取り始める。
思い返す。昨夜、ページをなぞったときの感触。赤く滲んだ文字。手の痺れ。
「……ハッ。俺がやったのか。」
その声に震えはなかった。静かな確信だけが残った。
◇
職場。いつも通りの会議。同僚たちはSNSの話題で盛り上がっている。
「昨日のやつ見た? 他人の人生おもちゃにしたやつは、殺されて当然だよな。」
その言葉に、胸の奥がざらついた。笑う彼らの顔が、どこか異様に見えた。
◇
夜。
久遠からメッセージが届いた。
《無理すんな。酒、冷やしといた。……いつでも来い。》
画面の文字が滲んだ。
あいつは多くを語らない。
けど、あの短い文だけで少し救われた気がした。
「……ただいま、小鉄。」
足元に顔をこすりつける小鉄。
その瞳が、ゆっくりと瞬く。
「ほら、お腹すいただろ?」
小鉄が喉を鳴らす。
薫はふっと笑って天井を見上げた。
(……これで、少しは報われたのか?)
呼吸を整え、目を閉じる。
胸の鼓動が、ひとつ早く、世界を打った。
裁きを受けさせてやる。……絶対に逃がさない。
その夜、風が静かに窓を叩いた。
胸の奥で、静かに脈打つものがあった。




