【第3話】 消された言葉
田中所長の元で働き、
一ヶ月が過ぎようとした頃──。
事務所の奥でコピー機が低く唸り、
紙の擦れる音が、静かな室内に一定のリズムを刻んでいた。
田中所長:
「今日から新しい子が
アルバイトで手伝ってくれることになりました。」
椅子を引く音。
所長が視線を入口に向ける。
田中所長:
「さっ、こちらに。
──白石真弓さんです。」
真弓:
「白石真弓と申します。
今日から──
……えッ?」
一瞬、言葉が止まる。
結斗:
「あっ……。」
田中所長:
「……ん? どうしたかね?」
結斗:
「同じ高校で、
僕が生徒会長、白石さんが副会長でした。
ずっと隣で、助けてもらっていて──。」
白石さんは、感情をあまり表に出さない。
無表情なせいか、
ときどき冷たい人だと誤解されることもあるが、
僕にとっては、誰よりも頼れる存在だ。
田中所長:
「そんな偶然もあるんだね。」
少しだけ目を細める。
田中所長:
「これなら話も早いね。
自分の復習がてらに、基礎的なところは君が教えてあげなさい。」
真弓:
「就職したとは噂で聞いていましたが、
まさか法律相談所で、また会うことになるとは思いませんでした。
少し立場は変わりますが、またよろしくお願いします。」
◇
それから、
僕はこの一ヶ月間で教わった基本的な仕事を、
白石さんに教えた。
結斗:
「さすが白石さん、
相変わらず整理するのが上手いな。」
真弓:
「そんなことはないです。
光条くんが、きれいにまとめていてくれたからこそ出来ました。
私だけでは、確実に時間がかかってましたから。」
田中所長:
「いいねー、二人とも。」
ファイルを一つ手に取り、
軽く頁をめくる。
田中所長:
「ほお……自分なりにしっかり整理してたつもりが、
導線もよくなって、効率が上がりそうだよ。
ありがとね。」
白石さんとは付き合いが長い分、
意思疎通がうまくいき、
与えられた仕事を順調にこなしていった。
◇
田中所長:
(慣れてきた頃だろうし……
そろそろ案件に少し触れさせてみるか)
所長は一つ息を整え、
机の引き出しからファイルを取り出した。
田中所長:
「君、ちょっと来てくれる?
これ、今来た案件なんだけど、
日本ではこういう案件が一番多いんだ。
まずはこっち。」
指先で一枚の書類を叩く。
田中所長:
「最近ほんとに多いんだけど……
残業代の未払い。
これはタイムカードなどの証拠が揃いやすいのと、
会社自体にも証拠が残ってることが多いから、
比較的、解決しやすい。
そして近年、増え続けているのが──」
田中所長は、言葉を選ぶように、少し間を置いた。
・継続的な暴言や人格否定
・物に当たるなどの威圧的な行為
・生活を制限するような振る舞い
「……いわゆるDVだね。
これは、正直難しいことが多い。
なぜ難しいか。
被害者は、嘘をついてる訳では決してない。
でも、我々が動くためには──
事実ではなく、証拠が必要なんだ。」
結斗:
「録音してても、
証拠にはならないんですか?」
田中所長:
「証拠にはなる。
でも、それだけでは弱いというのが答えかな。
長い生活の中の、ほんの数分を切り取っただけでは、
確かな証拠にはならない。
継続的に行われていることを、
しっかり証明しなければならない。
だから、辛い状況の中、
長い時間をかけて証拠を積み重ねる必要がある。
それが現実だね。」
結斗:
「でも……
それじゃあ、証拠が揃うまでに怪我や……
下手すると、事件にも……。」
田中所長:
「その通りだ。
君の言いたいことは、
痛いほど分かる。
でも、その"かもしれない"に対して、
我々は、どうすることもできない。
これが私が最初に言った
"理想と現実の壁"なんだ。
正義感のある君には、耐え難いことかもしれない。
でも、全員は助けられない。
例えそれが、どんなに善人でも、だ。
私情を挟みすぎると、
自分を壊してしまう。
心の持ち方を、今のうちに学んでおきなさい。」
結斗:
(どんなに……善人でも?
法の……限界……なのか。)
結斗は小さく息を吸い、
無意識にメガネを押し上げた。
「……これが、現実なんですね。」
田中所長:
「誰もが、最初に違和感を感じるところなんだ。
正義感が強ければ強いほど、
その壁は大きくなる。
でも、その壁と向き合いながら、
可能な限りを全力で助ける。
それが、我々の仕事だ。」
◇
それから数日間。
相談所には、同じ種類の相談が続いた。
結斗は、
救えるものと救えないものを、
無意識のうちに分けて考えるようになっていた。
事務員:
「所長……よかったんですか?」
田中所長:
「仕方ないさ。
ずっと信じ続けたうえで現実を知る方が、
よほど残酷だからね。
理解したうえで進んでもらう方が、
彼のためにもなる。」
◇
──帰り道。
夕暮れの住宅街。
自転車を押しながら、二人は並んで歩いていた。
真弓:
「光条くん。
法って完全ではないんですね。
何か、モヤモヤしませんか?」
結斗:
「確かに。
所長は理想と現実って言ってたけど、
これは僕たちでは、超えられない壁なのかもしれない。
それでも誰かの救いになるのなら、
僕達はやれることをやるしかないよね……。
真弓:
「はい、できることをやっていきましょう。」
結斗:
「──そうだ。
白石さん、大学はどう?
法学部なんだよね?」
真弓:
「はい、そうです。
学校で学ぶことは、基本的なことで──
・ルールの理解
・事実を整理する技術
・法の正当性
──のような内容です。
相談所にくるような、
勝てない案件は、基本的に扱いません。」
結斗:
「……なるほど。
学ぶことと、実際に扱う案件は、
だいぶ違うんだね。」
真弓:
「大学では、
要件を満たせば請求できる、と学びます。
でも現場では、
それを立証できるかどうか。
見るのは、それだけです。
……勿論、
善か悪かは、
判断基準にはなりません。」
結斗:
「そうだよね。
誰も間違っていないし、
これが今の世界を作ってる訳だし。
理解はしてる……
それでも僕は、
弱者が守られない法を認めたくない。
……あっ。
ごめん、つい熱くなっちゃったね。」
真弓:
「──いえ、いいと思います。
その考え。
私も、いろいろと学ぶ中で、
同じことを思ってました。
叶わなくても、
この気持ちだけは、大切にしませんか?」
結斗:
「……そうだね。
ありがとう、白石さん。
じゃあ、僕はこっちなんで。
また事務所で。」
真弓:
「はい。
また、よろしくお願いします。」
◇
──自宅にて。
自室の扉を閉め、
部屋に静けさが戻る。
結斗:
(白石さんも、同じ気持ちでいてくれてたんだ……
僕の気持ちは、間違ってないよな?)
机に向かい、本を開く。
指先で、法文をなぞる。
「できる」
「できない」
(この、最後の二文字が違うだけで……
世界は変わるのに)
結斗は、自分の信念を貫くように
ペンで法文の一部を塗りつぶした。
結斗:
「今日は……何か疲れたな。
明日も早いし、さっさと寝よう……。」
本を閉じ、布団に入る。
灯りが消え、部屋が闇に沈む中……
閉じた本の隙間から、
僅かに青い光が、こぼれていた。
──続く──




