【第1話】 崩れた日常
※この物語は、薫編以前――
世界が、まだ静かに歪み始めた頃の話です。
僕の名前は光条結斗。
父の記憶は、ほとんどない。
小さな頃に、離婚したらしい。
母はいつも、何も言わない。
困っていても、苦しくても、
笑って「大丈夫よ」と言う人だった。
本当は、
言いたいことだって、あったはずなのに。
それでも、母がいてくれた。
二人で笑って、二人で食べて、
どこにでもある普通の家庭――
……のはずだった。
──そう、“あのときまでは”。
森川:
「ユイト!お前また学年トップかよ!
最後までトップ維持できるとか、どうなってんだお前の頭は!」
結斗は、隣で肩を並べている森川を見て苦笑した。
結斗:
「まぁ……ほとんどの時間を勉強に使ったからね。
努力しなくてもトップになれる天才だったら良かったんだけど。」
森川:
「いや、十分天才だって。ユイトがいなかったら補習地獄間違いなしだったし。
頭いいし、生徒会長だし、顔までいいし……
ただ、"真面目すぎ"ってのが弱点だな。」
結斗:
「お前を助けたら、巡り巡って良いことが返ってくるかもしれないだろ?
ほら、テスト終わったしメシ行こうぜ。」
森川:
「お前……真面目撤回するわ。
よし、いつものロウバーガーだな!」
結斗:
「僕は新メニューのジャッジメントビーフセットで!」
森川:
「攻めるねぇ! おれは無垢なるフィッシュセットいっとく!」
◇
──食後。
トレーを片付け、
椅子に深くもたれた森川が、満足そうに息を吐く。
森川:
「食べた食べたぁ~。世は満足じゃー。
……なぁユイト、卒業したらどうすんの?」
結斗:
「もちろん就職するよ。
人を助けられる仕事がしたいと思ってて。
この街の法律相談所も、考えてる。
……うちは片親だからさ、早くお母さんに楽させてあげたいんだ。」
森川は一瞬、言葉を失ったあと、
照れ隠しのように笑った。
森川:
「……やっぱ真面目の撤回の撤回。
ほんと尊敬するって。
おれなんて“最悪実家の居酒屋継げばいっか~”とか言ってるレベルだぜ?」
結斗:
「それもいいと思うよ。
お前の居酒屋、絶対人気出るって。」
森川:
「ほい来た! 常連客一名確保~!」
結斗はスッとメガネを押し上げ、
小さく息を吐いた。
結斗:
「……はいはい。お通しは禁止ね。」
二人は顔を見合わせ、
思わず、笑みをこぼした。
◇
──帰り道。
夕焼けに染まる歩道を並んで歩く。
森川:
「じゃあ、またな!……あっ、明日数学教えてほしい!」
結斗:
「またか……いいよ。但し、しっかり覚えること!
じゃあな、気をつけて帰れよ!」
一人になった帰り道。
結斗はカバンの紐を握り直す。
(僕は何としても、しっかりとした仕事につく必要がある。
これ以上、お母さんに無理をさせるわけにはいかない。
落ち着いたら、今までのお礼も兼ねて……二人で旅行するのも、いいな。
だから……頑張らないと。)
◇
結斗:
「ただいまぁー。」
(あれ?買い物かな)
「……ただい……」
胸の奥が、ざわりと揺れた。
結斗:
「お、お母さんっ?!」
部屋の奥で、母は床に座り込んでいた。
服は乱れ、腕には赤黒い痕。
息をするたび、苦しそうに肩が上下する。
母:
「うっ……結斗……
外に行って……なさい……」
母の言葉を聞き終える前に、結斗は駆け寄っていた。
結斗:
「なにがあったんだよ……!
今、救急車を――」
男:
「あん? 誰と喋って……」
鈍い声が、背後から落ちてきた。
「おう、お前か。
呑気に学生なんてやってないで
さっさと働けよ。」
結斗:
「お前は誰なんだよ!
人の家に上がり込んで!」
男は鼻で軽く笑った。
男:
「さすがに覚えてないか……。
じゃ、またお金借りにくるからよ。
頼むぜぇ、お二人さん!」
男は返事も待たず、
そのまま玄関のほうへ歩いていった。
母:
「……結斗……ごめんね。
守れなかった……。」
母は震える手で、
散らばった封筒と財布を抱き寄せていた。
結斗:
「あの人は……誰なんだよ!」
母は、すぐには答えなかった。
母:
「できれば、一生会わせたくなかった……
もう、隠せないわね。
結斗の……あなたの父親だった人よ。
今はふらふらと仕事もせずに遊び回って、
お金がなくなったら……うちに来るの。」
結斗:
「警察にッ……」
母:
「いいのッ!
あとはお母さんが何とかするから。
結斗は……自分の事だけを考えてなさい。
──いいわね?」
結斗:
「ッ……。」
僕は何もできない自分を、悔やんだ。
母は、今までもずっとこうして一人で我慢を……。
(……。
法律なら、何かできるかもしれない。)
結斗は唇を噛みしめた。
(調べてみるか。
自分にも、できることを探さないと。)
結斗は母の様子を見守りながら、
法律について調べ続けた。
高校を卒業し、
在学中から進めていた就職の準備をもとに、
リストアップした法律事務所を、
一軒、また一軒と回った。
一軒目、二軒目は待遇は良さそうだった。
けれど、どこか心に引っかからない。
◇
──そして、三件目。
ビルの前で、
ほうきを持った男性が地面を掃いていた。
その男は、顔を上げると、
屈託のない笑顔で声をかけてきた。
──続く──




