【第10話】 ──光になった少女
風が冷たい。
丘の上から見下ろす街は、どこか落ち着かずざわついていた。
街のあちこちで、小さな揺れが起きていた。
花瓶が倒れ、人々が足を止め、屋根瓦がかすかに鳴る。
ユラは不安そうに空を見上げる。
そのすぐあと、地面がもう一度ゆっくりと揺れた。
瓦が小さく音を立て、風がざわりと逆向きに流れる。
街のあちこちで揺れが走った。
人々は思わず足を止め、皿を押さえたり、子どもを抱き寄せたりしていた。
風の流れさえ、わずかにざわついているように見えた。
揺れが収まり、静けさが戻る。
ユラは胸元を押さえて、小さく息をついた。
「……いやな揺れだったわ。
これで終わってくれたらいいけれど……」
声は落ち着いているのに、指先だけがかすかに震えていた。
ラルも胸の奥に、小さな針のような不安を感じていた。
視界が少し滲み、街の輪郭が揺れて見える。
「……ユラ、なんか……いやな感じがするの。
このままだと……誰も動けないままっていうか……」
言葉を探しながら、ラルは目を伏せた。
「何か……“備え”がいるんじゃないかって……
そんな気がしてるだけだけど……」
ユラはラルの横顔を見つめ、
そっと髪を耳にかけながら言った。
「……ええ。
もし、本当に大きな揺れが来たら──
ここには、助け合うための仕組みが何もないのよね。」
ふたりはしばらく黙って街を見下ろした。
遠くで犬が吠え、誰かの戸が軋む音がした。
ラルは胸元のノートを握りしめる。
(……何とかしなきゃ……
“できること”があるなら……)
ユラは息を呑んだ。
「その顔……
ラル……何か、しようとしてるのね?」
ラルは小さく頷いた。
その瞳には迷いも恐れも混ざっていた。
「……うん。でも、
今回は“みんなを守るための土台”にする。
世界を一気に変えないように……慎重に。」
ノートを開く。
指先が震える。
それでもペンを走らせた。
《防災基準法(草案)》
第1条 街の中心に避難広場を定め、全住民に最優先で開放すること。
第2条 異常を感知した際は、鐘・光・音により即時に知らせること。
第3条 避難時に高齢者・子ども・怪我人を最優先に誘導する者を置くこと。
──カンッ。
淡い紫の光が広がり、
街へと染み込むように流れた。
丘の上から眺めると、
慌てていた人々が徐々に整列し、
鐘が鳴り、避難誘導が始まっていく。
ユラがほっと息を吐いた。
「……ちゃんと、効いてる。
ラル、すごい……」
ラルは目を細める。
街が少しずつ守られていくのがわかった。
(……間に合って……)
心の奥で、そう願った。
そのとき、地の奥底から、
太い何かが軋むような音が響いた。
ゴウ……ッ。
空気が震え、街全体が低い唸り声を上げた。
丘が揺れた。
街の屋根が波のように沈む。
建物が軋み、悲鳴が遠くから聞こえる。
ユラがラルの腕を掴む。
「危ない……ッ! ラル、伏せて!」
ラルの心臓が跳ねる。
(……この揺れ……これじゃ間に合わないッ
防災法だけじゃ……足りない……!)
ユラが驚いて顔を向けたときには、
ラルはすでにノートを抱きしめていた。
「ラル!? なにをする気──」
ラルはユラに気づかれないように、
ノートの端を隠して書く。
この一筆は、
“法”じゃない。
“構造”でもない。
ただの祈り。
だが、ラルには迷いがなかった。
ペン先で、短く──たった一行だけ。
《──………………》
書いた瞬間、
地鳴りはさらに深く沈み、空気が軋んだ。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
(……うん……これでいい……
ユラ……みんな……生きて……)
祈りで世界を押し返す反動が、
そのまま自分の身体へ返ってきている。
それでも、手を止める選択肢はなかった。
地の奥底から、
太い何かが軋むように再び響いた。
ドォォォォン!!
街の中心部が崩れ、
瓦礫が煙のように舞い上がる。
「ラル!! やめて!!
それ以上は……!!」
次の揺れは、
大地そのものがねじれ、裂けるような動きだった。
丘の足元がずるりとずれ、
地面が波のように隆起しては沈む。
深い亀裂が口を開け、
石が飲み込まれていく。
ユラの足元が崩れた。
「──っ!!」
滑り落ちる。
悲鳴が喉からこぼれる。
「ユラ!!」
ラルは反射的に身を投げ出した。
崩れる地面の上で、必死に手を伸ばす。
けれど──届かない。
指先が、あとわずかの距離で宙を掴む。
その瞬間だった。
ラルの腕の輪郭がふっと揺れ、
皮膚の内側から淡い光が滲みはじめた。
血液が光に置き換わるように、
白い線となった輪郭がかすかに揺れ、
髪さえも風ではなく光に持ち上げられていく。
頬を伝った涙は、
落ちる前に粒子となり、静かに空へ溶けていった。
「え⋯やだ! ラル!! 行かないで!!
まだ……まだ一緒に──!」
ユラは泣き声に似た叫びで手を伸ばす。
けれど、ラルの手はもう“光”になりかけていて──
触れようとしたユラの指先を、
風のようにすり抜けた。
ラルは唇を震わせながら、
それでも真っ先にユラへ向けて言った。
「……ごめん……ユラ……」
それ以上、何も足せない。
でも、この一言だけはどうしても言いたかった。
光が強まり、呼吸が揺れる。
ラルは泣きながら、
それでも微笑むように言葉を続けた。
「……一緒にいてくれて……
本当に……ありがとう……」
最後の瞬間、
ラルはユラの方へそっと手を伸ばし──
「ユラ………ッ…。…」
声が、風に溶けて消えた。
次の瞬間、
ラルの身体は完全に光となり、静かに散った。
パサッ
残されたノートが地面に落ちて開く。
『みんなを……助けて』
ユラは崩れ落ちるようにノートを抱きしめ、
声にならない嗚咽を漏らした。
胸の奥が焼けるみたいに痛い。
喉が潰れて、呼吸さえうまくできない。
「……ラル……ラル……っ……!」
丘の風に、
ユラの震える息だけが溶けて消えた。




