【第9話】 ― 開かれた丘で ―
朝の冷たさがまだ残る廊下で、
ラルは胸の前でノートを抱きしめていた。
黒板の光が揺れ、文字がかすかに滲む。
昨日より、輪郭がぼんやりしていた。
ユラはその変化に、すぐ気づいた。
けれどラルは視線をそらし、悟られないように目を伏せる。
ラルが伏せるたび、
ユラの胸には静かな痛みが広がっていった。
(……ラルが倒れたあの日。
私はノートを見てしまった。
光も……文字も……
あれは確かに“起きていた”。)
問いは胸に刺さったまま。
でも、無理に聞けばラルを追いつめる。
ユラには、それが分かっていた。
授業は静かに進んでいく。
ラルはその間ずっと、苦しそうな目をしていた。
夕日が教室を染めたころ。
ユラはラルの前にそっと立った。
「……ラル。少し、歩かない?」
ラルは驚いたように瞬きし、
それでもゆっくり頷いた。
「うん……いいよ。」
学校の門を出ると、
ユラは迷わず細い坂道を選んだ。
「こっちよ。
ラルと……行きたい場所があるの。」
「……どこだろう。」
不思議そうにしながらも、
ラルは静かに隣を歩いた。
坂を上ると、
ふいに視界が開ける。
緩やかな丘の斜面。
風が光を抱えて駆けていく。
──あの丘だった。
二人が出会った、始まりの場所。
ラルは息をのんだ。
「……ここの丘、なんか……懐かしいね。」
ユラは微笑み、髪を耳にかけた。
「そうね……
私たちの“最初”の場所だもの。」
草の匂い。
風の温度。
遠くの鳥の声。
どれもラルの胸をそっと温めていく。
しばらくの沈黙ののち、
ユラがゆっくり口を開いた。
「ラル……
本当のことを、聞かせてほしいの。」
ラルの肩が小さく震えた。
「……本当のこと?」
「ええ。
あなたが倒れたあの日——
抱き起こしたとき、ノートを少しだけ見たの。
光が……零れていた。
文字が……揺れていた。
普通じゃないって、すぐに分かった。」
ラルはノートを胸に抱きしめ、
顔を伏せた。
「……ユラには、知られたくなかった。
だって……私がやってることは……」
「危ないこと、なの?」
ラルは震える声で続けた。
「私……いつの間にか、描けるようになっちゃって……
“法”みたいなものを。
願いじゃなくて……世界そのものを動かす言葉を……。」
ユラの瞳が揺れた。
「ラル……」
「最初は……
小さな花が咲いただけだった。
でも、だんだん……
もっと大きいことができるようになって……
でも同時に……
目が……」
ぎゅっと、手が震えた。
「見えなくなってきてるの……
光るたびに……
ちょっとずつ……」
胸の奥がかき乱されるように震えながら、
ラルは必死に言葉を吐き出した。
「……ユラ……
わたし……私のせいで……
“誰かの存在”が、この世界から消えちゃったの……
守りたかっただけなのに……」
胸が痛み、呼吸が詰まった。
「間違えて……
本当に……消しちゃったの……!」
声は震え、
涙はこらえて震えていた。
(……泣いたら、ユラに全部ばれちゃう……)
ユラは黙ってラルを見つめた。
責めもしない。急いで慰めもしない。
ただ静かにラルの肩に腕を回し——
ぎゅ、と抱きしめた。
その瞬間だった。
張りつめていた糸が、ふっと切れた。
ラルは、ユラに抱きしめられた瞬間——
今まで張りつめていた感情がほどけて、
「……っ、ぁ……っ……
ユラぁ……っ……!」
堰を切ったように涙があふれた。
肩が震え、声がひっくり返り、
言葉にならない嗚咽が漏れ続ける。
胸の奥から、押し出されるように本音がこぼれた。
「こわいの……っ……
光るたびに……世界が滲んで……
だんだん……見えなくなってる……!
何も……わかんなくなるのが……
本当に……こわい……っ……!」
涙がぽたぽたとユラの肩に落ちた。
「世界を……助けたいのに……
自分の世界が消えてくみたいで……
どうしたら……いいのか……
わかんなくて……!」
ユラは抱きしめて受け止める。
言葉で塞がない。
ラルの震えも涙も、そのまま預かるように。
やがて、抱きしめる力を少しだけ強め、
ユラは静かに囁いた。
「……だったら、ラル。
これからは私が……
あなたの“目”になるわ。」
ラルは涙の中で息を飲んだ。
「見えないなら……私が見てあげる。
危ない道なら……私が止める。
光が怖いなら、手を握ればいい。
ラルが前を向けるように……
私が全部、支える。」
ラルの胸の奥で、
大きな何かがほどけていった。
その瞬間——
ユラの“心の声”が聞こえた。
(……ラルを守りたい。
この子をひとりにしない。
たとえ世界が揺らいでも、
この子の手だけは離さない……)
ラルの瞳が大きく揺れ、
涙がまた溢れた。
「……ユラ……
どうして……
どうしてそこまで……
私を支えてくれるの……?」
ユラはラルを抱き直し、
頬に触れながら答えた。
「……大切な友達だからよ、ラル。」
その言葉はまっすぐで、
嘘のない温度だった。
だがユラは続けた。
夕空を見上げ、
胸の奥の“なにか”を探すように言った。
「それに……
ここに立つとね……
胸の奥で小さく……
“ラルを助けてあげて”って……
誰かに言われてる気がするの。」
ラルの心が震えた。
(……誰……?
さっきから胸の奥に響く、この声……?)
姿も名前もわからない。
けれど——
確かに“優しさ”だけが伝わってくる。
(……この感じ……
前に丘で触れた、あの優しい風……?)
その気配は、とても温かかった。
——そして再び。
ユラの“心の声”が響く。
(……ラルを守りたい。
二度と一人にしない。
これからもずっと傍に……)
ラルはユラの服を握りしめ、
涙があふれた。
「……ユラ……
どうして……そんなふうに思えるの……?」
ユラは静かに微笑んだ。
「理由なんて、うまく説明できないけれど……
“助けたい”って気持ちは、
たぶんずっと前から私の中にあったの。」
ユラの声は祈りのように優しかった。
「だから……ラル。
あなたが前を見失っても……
世界が霞んでも……
私がちゃんと隣で見る。
二人で歩きましょう。
これから先もずっと。」
ラルは涙の中で、確かに頷いた。
視界はぼやけているのに、
ユラだけがはっきり見えた。
風が丘をなでる。
少し離れた場所で、猫が静かに見守っていた。
青灰色の毛並みは夕日に溶け、
いつものように鳴かず、ただそこにいる。
──そのとき。
ラルの視界の奥が、ふるりと揺れた。
音はない。
光でもない。
世界の向こう側だけが、水面のように歪む。
(……いまの……何……?)
瞬きしても揺れは消えない。
むしろ輪郭だけが妙にくっきり浮かぶ。
猫が草を踏んだ。
ラルと同じ方向を見つめている。
耳がわずかに伏せられ、
尾先が震えていた。
「……猫も、見えてるの……?」
ユラは驚いたように二人を見比べる。
「ラル……何か見えるの?」
「……空が……揺れてる……。
景色の奥が……歪んでるの。
ユラには……見えない……?」
ユラは目を細めたが、
夕空に異変はない。
「見えないわ……」
その声には心配の震えが混じっていた。
また揺れが走る。
今度はさっきより長い。
猫は一歩前へ。
毛が、風とは違う方向へ逆立つ。
ラルは胸を押さえた。
(……これ……よくない……
何かの“始まり”みたい……)
風が冷たく流れた。
草が逆方向へ揺れる。
猫は丘の影へ駆け出し、
振り返らずに消えていった。
ラルは震える声で言った。
「ユラ……何か……嫌な予感がする。」
ユラはラルの手を包み込み、
胸に抱くように寄り添った。
「大丈夫よ、ラル。
見えなくても、揺れても……
あなたの隣には、私がいるから。」
──空の奥で揺れる“なにか”は、
まだ形も音もなく、
けれど確かに“目覚め”の気配だけを残していた。
名も、影も、輪郭すらない。
それでも——確かに動き始めていた。




