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LAW ORIGIN —— 見えざる法のはじまり ——  作者: おまる
第2章:ラル編 ─ LAW MAKER ─
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【第8話】 雨の軒下で ― 人の心で決めること

夕立は、街の輪郭をやわらかく溶かしていた。


白く霞んだ視界の向こうで、

傘の群れがゆっくりと流れていく。


足もとの水たまりに、つま先が取られた。

バランスを崩し、掌をついた瞬間——


胸に抱えていたノートが、指をすり抜けて落ちた。


薄い紫の表紙が、汚れた水を弾きながら滑っていく。


「……あっ!」


手探りで水をかき、指先で縁を探る。

白い光が視界に散って、輪郭がほどけていく。


周囲の足音は、近づいたと思えばすぐに遠ざかった。


《急いでるから……ごめん……》

《誰かが拾うでしょ……》

《見てない、見てない……》


聞こえるのは、言葉にならない“心の声”ばかり。


そのとき。


雨粒を遮るように、影がひとつ立った。


細い手がそっと差し伸べられ、

泥で汚れたノートを優しく拾い上げる。


挿絵(By みてみん)


「それ、あなたの大事なものなんでしょう?」


落ち着いた声。

紺の配給所の制服の女性——髪先からは雨が細く滴っている。


ラルは息をのんだ。


「……ありがとうございます」


受け取った表紙は冷たくて、手が少し震えた。


女性は傘の柄を持ち直しながら、静かに首をかしげた。


「大丈夫? さっき……足をひねったみたいだったから。」


「ちょっと……目の調子が、あまり良くなくて……」


ラルがそう言うと、女性は一瞬だけ目を細め、

やさしく微笑んだ。


「そう……じゃあ、なおさら気をつけないとね。」


その声は雨音よりも静かで、どこか温かかった。


ラルは俯きながら、女性の袖口に泥がついているのに気づいた。


(……この人は、誰にも見返りを求めてない……)


「すみません……。服、汚してしまって……」


「気にしないの。」


女性はふっと小さく笑った。


「こういうの、放っておけないのよ。

……別に助けても、何の得にもならないけれどね。」


冗談めかした声に、ラルは思わず聞いてしまった。


「法に書かれてるわけでもないのに……

どうして、助けてくれたんですか?」


女性はまっすぐにその瞳を見て、静かに言った。


「転んだ人を見かけたら助けなさい、なんて法はないでしょ?


でも、人はね……法を探して動くんじゃないの。

“目の前の人”を見て、心で決めるのよ。」


ラルは息をのんだ。


(……私、いつから“法があるから”で動くようになってたんだろ。

本当に大事なのは、法じゃなくて——人の心……)



古い商店の軒下。


トタン屋根を叩く雨音が、世界を一定のリズムで包んでいた。


女性はハンカチでノートの表紙を押さえ、

余分な水分を丁寧に吸い取ってから、そっと返してくれた。


「ね、動くとまだ滑るわ。

少し落ち着いてから行きましょう。」


「ありがとうございます……ほんとに。」


ラルは深く頭を下げた。

白い滲みの中で、女性だけが柔らかく浮かんで見えた。


女性はラルを見つめながら言った。


「損得じゃなくてね。……放っておけないだけなの。

お礼はいらないわ。


もし困ってる人がいたら——

今度は、あなたが手を差し伸べてあげて。

それで十分。」


ラルは胸が熱くなるのを感じた。


(……わたし、“全部自分がなんとかしなきゃ”って、

勝手に思い込んでたんだ……)


白い光が滲み、女性の輪郭が優しく揺れる。


(人には、人の力がある。

わたしは、その“足りないところ”をそっと押すだけでいいんだ……)


(ユラも、そうやって……いつも私を支えてくれてたんだよね)


「——助けてくださって。……ありがとうございました。」


ラルがもう一度まっすぐに言うと、

女性は上品に会釈し、傘の角度を直した。


「どういたしまして。……帰り道、気をつけてね。」


歩き出した背中は、

小さな波紋を残して雨の向こうへ溶けていった。


雨が上がるころ、路面は鏡のように街を映していた。


白い霞はまだ残っている。

けれど——さっきより輪郭が少しだけ見えた。


(法は、道しるべみたいなもの……

でも、歩くのは“人そのもの”。


人の心で決めることまで、

わたしが全部先回りして描く必要は……きっとない。)


ノートの角が、掌の中でかすかに脈を打つ。


今日は開かない。

開いてはいけないと、静かに思った。


(——信じよう。

そして必要なときだけ、そっと背中を押そう。)


(……ユラも、いつもそうしてくれてるみたいに。)


雲の切れ間から淡い光がのぞいた。

街角の水たまりが、その光を細く裂いて揺らした。


世界はまだ未完成のまま息をしている。


ラルの胸の奥でも、

新しく芽生えた小さな確信が、静かに息をしていた。

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