【第7話】 消えた名のあとで ― それでも知ることから
翌朝。
世界は昨日と変わらないように“見えた”。
けれど──
どこかが静かに削り取られていた。
登校の途中、ラルは花屋の前で足を止めた。
昨日まで並んでいたはずの花束が、
もうない。
店の看板も、跡形もなく消えている。
ユラに話してみても、
彼女は少し首を傾げただけだった。
「……そんなお店、あったかしら……?」
ラルの胸の奥がきゅっと縮んだ。
「……やっぱり、私のせいで……」
ノートを開く。
昨日、必死で描き直したはずの法は、
黒い焦げ跡のように滲んでいた。
掠れた文字だけが残り、
紫の光はひとかけらも生まれない。
「描き足しても……救えなかった……」
喉が詰まり、呼吸が浅くなる。
ラルは崩れ落ちるようにしゃがみ込み、
ノートを抱きしめたまま声を絞り出した。
「ごめんなさい……
ほんとに……ごめんなさい……」
ぽたり、と膝に落ちるものがあった。
自分でも気づかないうちに、
頬を伝って涙がこぼれていた。
肩が震え、
指先までかすかに震え続ける。
「……ごめん……ごめんね……」
白い光が眼の奥で脈打つたび、
涙がにじんで世界が揺れて見えた。
そのとき──
眼の奥で白い光が淡く脈打った。
耳の奥で、微かな声が膨らんでいく。
……はすべて……すくえ……ない
………が……はじまり……
(……また……あの声。
前より少しだけ……聞こえる……?)
言葉は欠け、音は遠い。
それでも、どこか懐かしい温度を帯びていた。
視界を細めると、
白い光がまた滲んで、
世界の輪郭が解けていく。
(——“全ては救えない”?)
答え合わせみたいに、
胸の痛みが静かに形を持った。
◇
午後。
教室の扉がそっと開き、
ユラが不安そうに顔をのぞかせた。
ラルを見るなり、
彼女の表情がやわらいだ。
「……ラル。最近……
あなた、ちょっと元気がなかったから……
気になって……」
ユラはそっとラルのそばまで歩き、
いつもより少しだけ柔らかい声で続けた。
「ねぇラル。最近ね……
街の雰囲気が、少し変わった気がするの。」
ユラは窓際に歩きながら続けた。
「記録を残す人が増えて……
手を取り合う人たちも見かけたわ。
“笑顔が戻った”って言う人までいたの。」
ラルは顔を上げた。
視界はまだ白く滲んでいたが、
その目にはかすかな光が戻っていた。
「……そうなんだ。
よかった……ほんとに……」
声はかすれていた。
けれど、その笑みだけは確かだった。
ユラはそっと外を見つめ、
優しい声で言った。
「たぶん……
“何かを信じて動ける”ってだけで、
世界は少しずつ変わっていくのよ。」
ラルはそっとノートに触れた。
(……私のしてきたこと、
全部が間違いじゃなかったんだ。
救えた命も、確かにあった。
だから……次は、絶対に間違えない……!)
ラルは小さく息を吸い、
ユラを見た。
「……ユラ、ありがとね。」
「え? あ、えぇ……
元気出たなら、よかったけど……ふふ……」
ユラは少し戸惑いながらも微笑んだ。
その笑顔を見るだけで、
ラルの胸にあたたかい風が吹いた。
窓の外では、春風がそっと花を揺らしていた。
紫の光が、ほんのわずかに空へ溶けていく。
◇
教室へ戻る廊下で、
ラルは歩幅を少しだけゆっくりにした。
白い霞に目が慣れるまで、
壁に手を添える。
(……この力、使うたびに視界が白くなる。
そんな都合のいい力じゃないってこと……
本当は……なんとなく分かってた。)
(……慎重に使えって、
そういうことなんだよね……)
それでも、足は止まらない。
(……救えなかった人たち。
名前ごと消えてしまった人たち。
どれだけ描き直しても、もう戻らない。)
(私は、その痛みの上に
“次の法”を描いていくしかない。
忘れちゃいけない。
この罪を抱えたまま——生きていくんだ。)
そして、そっと呟いた。
(——“知る”ことから、はじめよう。)
ノートの角が、
掌の中で心臓のようにやさしく脈を打った。
世界はまだ、未完成のまま息をしている。
そしてラルの胸の奥でも、
小さな決意が静かに息をしていた。




