【第6話】 記録の法 ― 消える名前 ―
薄い雨が上がった直後の路地は、
空気ごと冷たさを残していた。
夕日の残り香が水たまりに滲む。
そこに横たわる小さな体は、
まるで眠っているかのように静かだった。
薄い毛布の隙間からのぞく小さな手は、
古びた布にしがみついている。
ラルは息をのんだ。
ユラはそっとラルの肩に手を置いた。
行き交う人々は買い物袋を提げ、
何事もないように通り過ぎていく。
足は止まらず、
視線だけが宙を彷徨い、
言葉はどこにも届かない。
「この子……誰の子なんだろう……」
その声は、ユラ自身への問いのようだった。
ラルは小さな靴を拾い上げ、
泥をはらい落とした。
「……名前もないまま、
消えていくような人が……
この世界には、まだいるんだね。」
ユラは何も言わなかった。
ただ、そっとラルの手を握った。
二人の間に、
言葉にならない決意が静かに芽生えた。
――もう二度と、
誰も名も記憶も失ったまま消える世界にはしない。
◇
夜。
ラルは深く息を吸い、
“どうすればこの子のように名前を失う人をなくせるか”
を考えた。
そして、ほんの少しだけ眉を寄せる。
(……名前が残らなかったら……
また誰かが“いなかったこと”にされちゃう……)
(……お願いだから、ちゃんと名前を残して……
そのためには……少し強く書いておいたほうがいいよね……)
それは、ラルなりの善意だけの判断だった。
《第89条 記録の法》
すべての命は、その名とともに必ず記録されるものとする。
記録を拒んだ場合、その者は法の保護を受けることができない。
「……これで……誰も見落とされないはず……。」
ページを閉じ、そっと息を吐く。
──カンッ。
淡い光がノートの縁から走り、
夜の街へ静かに広がっていった。
その光は、祈るようにやさしかった。
◇
翌朝。
街の掲示板には、新しい法が貼り出された。
《記録登録義務、正式施行》
人々はざわめきながらも、
書類を抱え、役所へ列を作っていた。
戸惑い。
沈黙。
少しずつ整っていく流れ。
ラルは通りの片隅で立ち止まった。
昨日まで子どもの声が響いていた家の前に──
ぽっかり空き地があった。
土の匂いだけが、昨日の家の面影をかすかに残していた。
どこを見ても、その家の名前を口にする人はいない。
笑顔で通り過ぎる人々。
まるで、最初から“何もなかった”かのように。
「……どうして……?
昨日まで……あの家……あったのに……」
近くを通る人に声をかける。
「ねえ……ここに住んでた……あの家族、知ってる?」
「ここ? ずっと空き地だよ?」
「誰も住んでなかったよ?」
答えはどれも同じ。
ラルの喉がきゅっと詰まった。
(……そんなはず……ない……
子どもの声……聞こえてたのに……)
風が貼り紙を揺らす音だけが響く。
ラルは震える手でノートを開いた。
ページの隅で、
脈を打つように光が揺れた。
(……まさか……
記録されなかった命は……
名前ごと……この世界から……?)
言葉は続かなかった。
震える手でページをめくり、
新たな文字を書き足す。
《記録の法 改訂案》
誤って除外された記録を修復し、
その者の存在を再びこの世界に結ぶこと。
「……戻って……お願い……!」
声が掠れた。
文字がにじみ、光が暴れ出す。
「お願い……もう一度──!」
紫の光が爆ぜた。
世界が、白く染まった。
「……あ……れ……?」
ラルは目を覆った。
光が痛い。
世界の輪郭が滲み、
揺れながら遠ざかっていく。
――そして、意識が途切れた。
ラルの体が崩れ落ちる。
ノートが手から滑り落ち、
石畳に「ぱたん」と音を立てて開いた。
淡い光だけが、鳴き声のように揺れていた。
◇
同じころ。
ユラは学校からの帰り道を歩いていた。
夕方の通りはまだ賑やかで、
店じまいの声や子どもたちの笑い声が混じっていた。
角を曲がると、ざわめきが耳に飛び込んだ。
人だかり。
胸の奥がざわつく。
ユラは思わず駆け出していた。
「……っ、ラル……!」
石畳の上。
ラルが倒れていた。
呼吸は弱いが、確かに生きている。
ユラは膝をつき、抱き起こした。
「ラル……聞こえる……?
お願い、返事して……!」
そのとき──
ラルの腕からノートがすべり落ちた。
ぱら、と開いた紙面に、
淡い紫の痕が揺れていた。
ユラは息を呑む。
(……なに……これ……
文字が……光ってる……?)
周囲の大人たちが駆け寄る。
「診療所へ運ぼう!」
「板を持ってくる!少し待って!」
ユラはノートをそっと閉じ、
ラルの胸に戻した。
「……ラル。
大丈夫……。
必ず助けるから。」
木の平板にラルを乗せ、
ユラと大人たちは診療所へ駆け出した。
風が、ふたりの背中を押すように流れた。
◇
次に目を開けたとき、
白い天井がにじむように視界へ入った。
「……ここ……病院……?」
かすれた声でそう呟くと、
すぐ隣から、ほっとした息が聞こえた。
ユラがラルの手をぎゅっと握っていた。
「……ラル。
倒れているあなたを見つけたとき……
本当に……胸が締めつけられたのよ。」
言葉を抑えながら、
ユラはメガネの位置をそっと整えた。
ラルは天井をぼんやり見ながら、
ゆっくり口を開く。
「……光が……まぶしくて……
急に……全部、見えなくなったの。」
ユラは一度だけ、小さく息を呑んだ。
そして声を落として続ける。
「先生は原因がわからないって……。
でも、ラル……
あなた、最近……ずっと苦しそうだったのよ。」
ユラの胸が、理由もなく強く痛んだ。
ラルは微笑もうとしたが、
唇がかすかに震えた。
「……だいじょうぶ……だと……思う……。」
窓の向こうでは夕日が沈み、
白と紫が混ざる光が、
ラルのまつげに反射して静かに揺れた。
◇
この世界は、まだ未完成のまま息をしている。
そしてラルの瞳の奥では、
消え残った光が
それでもかすかに燃え続けていた。




