【第3話】 証言を守る法 ― 救いと犠牲 ─
あの日の問いは、まだ胸の奥にくすぶっていた。
“助けることが救いだったのか。
それとも……これで救われたのか。”
答えのないまま、朝が来た。
教室の空気は重い。
誰も事件のことを口にしない。
けれど、名前は全員の胸の奥に沈んでいた。
ラルは指先で机の端をとん、とんと叩いた。
「……イジメを見た人、きっといたよね。
でも……怖くて、言えなかったんだと思う。
“見なかったほうが楽”って……思っちゃったのかな。」
ユラは少し目を伏せ、メガネを指で直した。
「……だと思うわ。
誰も、自分が傷つくほうを選びたくない。
言っても変わらないって……
そう信じてしまってるのよ。」
ラルは窓の外に目を向けた。
霞んだ空は、どこまでも静かだった。
(……このままじゃ、何も変わらない。)
放課後。
校舎の屋上で、ラルはノートを開いた。
風が頬をなでる。
肌が少しだけひんやりした。
「……誰もが安心して、本当のことを言える世界って……
どうしたら作れるんだろ……。」
考えるほど胸が痛む。
前に一度だけ法を書いてみた時の“あの無力さ”がよみがえる。
──でも。
悩みの奥で、ひっそりと光が揺れた。
「……もう一回だけ。
今度は“守るため”の言葉なら……。」
自分でも驚くほど、胸の奥が熱くなった。
怖い。でも、逃げたくない。
ラルは深く息を吸い、そっとペンを取る。
《第91条 証言者を守る法》
証言者はいかなることがあっても、
その身の安全およびプライバシーを保護されるものとする。
(……まずは“守る”こと。
誰かが声を上げられなくなる世界は嫌だ……。)
そして、
その証言が真実である場合、
いかなる報復もこれを禁ずる。
(……でも、嘘は……だめだよね。
嘘を許したら、本当の声が届かなくなる。)
ただし、
意図的に虚偽の証言を行った者は、
法により相応の罰を受けるものとする。
「よし、これならっ……お願いっ」
淡い紫の光がページから滲み出し、
校舎全体を包むように広がる。
……ス……ヲス……ウ……ウハ……イ……
聞き取れない。
でも、どこか優しい、祈るような声だった。
──カンッ。
空気を震わせる音が鳴った。
紫の光が、静かに吸い込まれるように消えていく。
ラルの視界が白く滲む。
……その白は、少しだけ長く残った。
けれど、ラルは小さく微笑んだ。
「……あの時の音……やっと鳴った……。」
そっとノートを閉じる。
「……今度こそ……うまくいきますように……。」
翌朝。
校内放送が流れた。
『――学内により新たな法を適用します。
証言者の安全・プライバシーは保護されます。
真偽の確認後、正式な調査・対応を行います。
なお、意図的な虚偽の──』
放送が終わると、校内の空気がゆっくり動き始めた。
一見、何も変わらない。
けれど、数人の生徒が
「……先生に言ったほうがいいかな……」
「……守ってくれるなら……」
ひそひそと、小さな声を交わし始めていた。
そのかすかな変化に、ラルの胸がふっと温かくなった。
(……やっと……変わるかもしれない……)
その瞬間だった。
──『全てを救う法はない。』
胸の奥に、冷たい声が落ちた。
「──っ……!」
「ラルー? 全然気づいてくれない……。」
ユラの声で、ラルははっと我に返った。
「あ……ごめん。ちょっと……考えごとしてたの。」
ユラは心配そうに目を向けたが、
それ以上は何も言わなかった。
(……なんで……いま言うの……
うまくいきかけてるのに……。)
風が吹き、カーテンが静かに揺れた。
数日後。
校舎の隅で、教師たちが沈んだ声で何かを話していた。
「……名指しされた生徒が……自ら……」
言葉にならないざわめきが広がる。
ラルは足元がふらついた。
ノートを握る手が震える。
(……わたしの法が……あの子を……?)
胸の奥が冷たく沈んでいく。
後日。
机の中から一枚の紙が見つかった。
震える文字で、ただ一言。
『ゴメンナサイ。』
教室が息を止めるように静まった。
ユラがそっと近づき、
ラルの隣に寄り添った。
「……残念な結果にはなってしまったけれど……
私はこの法に“間違いはなかった”と思うのよ。
“声が届く場所”を……誰かが作らなきゃいけなかった。」
その声は優しかった。
でも、ラルの胸に刺さった棘は、抜けるどころか深く沈んでいった。
ラルは目の前の現実が信じられなかった。
胸の奥が、冷たい泥のように沈んでいく。
ノートを握る指先が、小刻みに震える。
紫の光がかすかに滲んで、すぐに消えた。
(……わたしのせい……?
わたしが……描いたから……?
そんなつもりじゃ……なかったのに……)
自分の心が、底のほうで音もなく沈んでいく。
「……ラル?……大丈夫……?」
ラルは返事ができなかった。
ただ、ほんの少しだけ首を振った。
ユラは何も聞かなかった。
けれど、そばにいることだけは選んでくれた。
ラルは唇を震わせ、かすかに呟いた。
「……これが……“答え”……なの……?」
その問いは、誰にも向けられていない。
ただ、曇っていく自分の心へ向けたものだった。
ノートの端で紫の光が揺れ、
かすかに震えながら、呼吸するように消えていく。
「……たぶん、多くを助けるために
一人を犠牲にするのが“正しい”って……
誰もが言うのかもしれない。
でも……そんな世界を……
正しいって呼べるのかな……。」
風がそっと頬を撫でた。
どこかで、小さな鈴が鳴るような音がした。
「……変えていかないと。
……わたしが……描かなきゃ……。」
指先には、まだ紫の光がほのかに残っていた。
ページの隙間から舞い上がった一枚の紙が、
沈む夕日にゆっくり溶けていった。




