【第1話】 風の法 ─ 開花 ─
朝。
《無垢ノ地》の丘は、今日も静かだった。
風が草をなで、どこか懐かしい匂いを運んでくる。
ラルは胸にノートを抱えながら、
「んふふ~♪」と小さな鼻歌をこぼして歩いていた。
この丘は、昔から彼女がひとりで来る“お気に入り”の場所だった。
風がやわらかくて、胸の奥がすうっと軽くなる。
理由は分からないけれど、ここだけはずっと落ち着く。
昨日書いた言葉を思い返す。
《法は、未来を生きる人の為にある♡》
その一行が、まだ胸の奥で小さく光っていた。
◇
丘の上には、しゃがみ込んで花を撫でている少女がいた。
その傍らには、崩れかけた石のかたまり。
名前も刻まれていない。
(……あれ……あそこ、誰かのお墓みたい……?)
ラルが近づくと、少女は振り向き、メガネをそっと直して首を傾げた。
「……誰かのお墓?」
ラルの問いに、少女は小さく首を振った。
「ううん、よく分からないの。
でも……ここに座ると落ち着くのよ。
気づくと、この花の前に来ていて。」
風が通り抜け、花の茎が小さく揺れた。
(……を……まも……って……くれ……)
誰かの声のような、風のささやき。
ラルは肩を震わせ、あたりを見回した。
「えっ……今の、誰?」
返事はない。
ただ、風の向きが変わっただけだった。
「……守る? 何を……?」
ぽつりと呟いた声に、少女が聞き返す。
「え? いま、何か言ったの?」
「……ううん。風の音が……ちょっと、誰かの声に聞こえて。」
少女はふっと微笑み、髪を耳にかけた。
「ふふ……この丘、よく喋るのよ。
きっと、気のせいだわ。」
ラルは小さく息を吐き、照れ笑いした。
けれど胸の奥には、微かな熱が残った。
――何かを“守らなきゃいけない”ような気がした。
◇
ラルは、柔らかく笑う少女の気配に少しだけ肩の力が抜けた。
「ラルだよ♪ 成瀬ラル!
……えっと、その……呼びやすいほうで呼んでいただければ幸いであります♪」
少女──ユラは小さく微笑んで、メガネをそっと直した。
「変な言い方するのね。」
「私は……新生ユラ。ユラって呼んで。
“ラ”繋がりね……ふふ。」
ふたりは同時に笑った。
その小さな笑いが、丘の風にさらりと溶けた。
◇
ユラがラルのノートを覗き込む。
「……それ、どんなものを書いてるの?」
「あ、これ?」
ラルは少し照れながらページを開いた。
《法は、未来を生きる人の為にある♡》
「なんかね、ふっと思いついちゃって。
落書きみたいなものだよ♪」
照れたまま、ラルは指先でその言葉をなぞる。
──カンッ。
空のどこかで、小さな音が響いた。
丘の空気がふっと変わる。
風が草をなで、
土の奥から淡い光がにじむ。
そして──
枯れた花が、ほんのわずかに震えた。
茎に春のような温もりが宿り、
花弁が一枚だけ、ゆっくりと開く。
ラルは息を呑んだ。
ユラはその変化に気づかず、
ただ開いた花を見つめ、ほっと微笑んだ。
そのほんの少しあと。
背後の草が、ふわりと揺れた。
ラルが振り返ると、灰色の猫が座っていた。
音も立てず、ただじっとこちらを見ている。
「こっそりくんだ♪
いつの間にそこに……ほんと“忍びスキル”高いなあ♪」
ユラは思わず吹き出した。
「なにそれ……ふふっ。
でも……静かな子なのね。」
「うん、ぜんぜん鳴かないの。
勝手に“こっそりくん”って呼んでるだけなんだけどね♪」
猫は鳴かず、ただ静かに瞬きしていた。
風がふわりとふたりの間を抜け、その毛並みがやわらかく揺れる。
ラルが微笑むと、猫はまるで返事をするように尻尾を一度だけ振った。
それから、そっと視線を花のほうへ向ける。
◇
ユラもその視線につられるように花へ目を落とし、
しゃがんでそっと指先を伸ばした。
その触れ方は、驚くほどやさしかった。
「……ありがとう。」
その“ありがとう”は、
花でも、ラルでも、猫でも、風でもなく──
崩れた石のほうへ。
ユラ自身、その理由に気づかないまま、静かに向けられていた。
◇
帰り際。
ラルはノートを閉じて、小さく呟く。
「……光、なんだったんだろ。
今日の丘……なんか、いつもより優しかったかも♪」
丘の上に残った一輪の花が、
そっと、もう一度だけ揺れた。
そのすぐそばで、
灰色の猫がゆっくり尾を振り、
ふたりの背中を静かに見送っていた。




