87.
「何だと」
「私は事実を申し上げただけです、何て中途半端な放任主義なのかと」
そう唇だけで微笑む。ケビンの瞳に暗い炎が宿った気がした。
恐ろしい形相で彼は私に近づいてくる。今まで甚振っていたホルガーのことなど忘れたように。
「まともに当主をしていればホルガーは忠誠心が強い代わりに視野が狭く色々行き届かない男だと理解出来る筈です」
「貴様、俺が当主として不出来だと言いたいのか」
顎を乱暴に捕まれる。
ケビンを怒らせ続ければ力任せに砕かれてしまうのかもしれない。
そんな恐怖と痛みを感じながら私は声を発した。
「ホルガーを厳罰に処せば世間からもその評価になりますわ、暫くは屋敷が今まで以上に立ちいかなくなるでしょうから」
「つまりお前は屋敷にホルガーが必要だと言うのか」
「はい、彼の知識は必要です。あの罪人たちの様に禁則地に立ち入って旦那様を御不快にしない為にも」
私は直接言葉にせず隠し通路のことを匂わせる。ケビンの顎を掴む力が強くなった。
「なら今回の騒動、表向きには何とする?」
「……悪女と名高い新妻が気に食わない使用人たちを追い出したとでもなさいませ」
「ほう、それで俺に何の利益が?」
「我儘勝手をする悪妻なら、夫が好きな時に捨てても誰も気にしませんわ」
私はケビンの目を見て言う。
彼が渋々結婚しただけの私を捨てる気だと知っている。
その上で離婚しやすいよう振舞ってやると提案をしたのだ。
(……別に、ケビンは悪評なんて気にしなそうだけれど)
そんなことを内心思いながらも表情で強気を装う。
ふと顎を掴む力が緩んだ。
代わりに腰を乱暴に抱き寄せられる。
そして耳元で囁かれた。
「媚びろ」
「……は?」
「俺が雇った使用人たちを貴様が我儘で解雇した、なら俺の機嫌をとるべきだとは思わないか?」
そう声だけで笑って目に暗い炎を宿した男は告げる。
原作でもケビンは頼みを聞く代わりにとエリカに唇をせがんだ。
それは恋人同士のじゃれ合いだと思っていたけれど、無償で何かをするのが単に嫌なだけだったのかもしれない。
(ケチで、惨めな男ね。 ……そんな奴に従わなければいけない私も、惨めだわ)
私は一度だけ強く唇を噛みしめると彼の首に腕を回し唇に唇を押し当てた。
酒の匂いがして不快感が増す。こんな時間から飲酒しているのか。
人前での強制接吻と、酒の香りでくらくらとする。
(今すぐ真夜中になって私の姿が見えなくなればいい)
どれぐらい時間が経ったかわからないが、唐突にケビンに突き飛ばされる。
後ろに倒れ込みそうになるのを誰かが支えてくれた。
「今回は新妻の我儘を許してやる、次は無い」
そう言いながらケビンは漆黒の馬車に乗り込む。そしてゆっくりと馬車は走り出した。
私はそれを呆然としながら見つめる。
馬車が完全に見えなくなると全身から力が抜けた。
「奥様!」
カーヴェルの声が間近からして、私は我に返る。
突き飛ばされてからずっと支えてくれていたのは彼の温かな腕だった。
(今頃気づくなんて……)
私はどれだけ目の前のケビンを警戒し緊張していたのだろう。
小さく礼を言って私はカーヴェルから体を離した。
「大丈夫、ホルガー?」
「奥様、申し訳御座いません、奥様……」
地面を涙で濡らしホルガーは謝罪を繰り返し続ける。
「次は無いわよ」
私は悪趣味な冗談を言いながら彼に手を差し伸べた。
しかし大柄なホルガーの体を車椅子に戻すことなど私一人で出来る筈が無い。
「カーヴェル、手伝って頂戴」
私が声をかけると眼鏡の奥の瞳が夢から覚めたようにびくりと瞬いた。
そしてハンカチを取り出すと私の唇に当てる。
「奥様、血が……」
「ああ、先程歯を食いしばり過ぎたみたいね」
私は苦笑いを浮かべる。
無意識の行動だ、どれだけ私はケビンが嫌いなのだと自分で可笑しくなった。
しかしカーヴェルは私の手にハンカチを渡すと静かに告げた。
「奥様、一つだけお許し頂けるでしょうか」
「何?」
「私カーヴェル・コートネイはアベニウス公爵家だけでなく……貴女個人にも生涯忠誠を誓うことを」
「え……」
「身勝手な私の忠誠を、どうかお許しください」
そう真剣な目でカーヴェルは言うと、ホルガーを抱きかかえるようにして車椅子に乗せる。
(……義理堅い男ね)
きっと彼は自分の父親を私が助けたことに深く感謝しているのだろう。
でもそこまで重い忠誠はいらない。原作でエリカを庇い水底に沈むカーヴェルの姿を思い出し私は告げた。
「要らないわ、忠誠なんて。私は一人でも生きていけるもの」
「奥様……」
「それよりも中に入りましょう、もしかしたら雪が降るかもしれないもの」
私はそう言って屋敷を指さす。
そして車椅子に乗ったホルガーと足並みを揃えて屋敷に戻って行った。
カーヴェルが扉を開けようとすると、中から静かに扉が開かれる。
すると玄関ホールに大勢の使用人が集まっていた。
「お帰りなさいませ、奥様!!」
まるで練習でもしていたかのように使用人たちが声を合わせる。
私は何事かと驚いた。しかし使用人たちの中に笑顔のレインを見つける。
彼女はにやにやしながら私たちの元へ近づいてきた。何故かレオとロンも連れてきている。
「もう、レイン先生の仕業ね」
「私だけじゃないよ。皆君を心配してここに集まって来たんだ」
「心配、どうして?」
「腐った屋敷の大改革をした女主人が、悪い魔王様に罰を受けないかとね」
そう私の肩を抱いてレインが言う。それが事実かはわからないが大勢の使用人たちが私を見ていた。
自然と背筋が伸びる。
レインが私から体を離した。私は使用人たちの前へと進んだ。
子供たち二人もスカートに纏わりついて一緒についてくる。歩きづらいが何故か心強かった。
多分これは二人が私を支持しているという表明なのだ。レインの差し金だろうか。
彼女は私の肩を優しく叩いた。
「君が管理する屋敷と君に忠誠を誓う使用人が揃っている。改めて挨拶をしてあげてよ」
「……わかったわ。私はエリカ・アベニウス。この屋敷では新参者にあたるわね」
使用人たちの顔を見渡す。何度か見た顔も、まだ見慣れない顔も皆私に注目していた。
以前擦れ違ったメイドたちを見つける。あの時彼女たちに改善を約束した。
この澱んだ屋敷の空気を改善して見せると。私はレオとロンそれぞれの肩に手を置いて宣言する。
「けれど女主人としての責任から決して逃げないことを約束するわ。貴方たちが充実して働ける職場にしてみせます」
まるで社長就任の所信表明の様だと内心で苦笑いした。
するとパチパチと拍手の音がする。レインだった。そしてメイドたち。じわじわと拍手の音が増え、最後はさざ波のような拍手になっていく。
まるでコンサートの終演のようだ、私はそう思いながら拍手の音に心地良さにそっと酔い痴れていた。
けれど終わりではない、始まりなのだ。私が視線をそっと向けるとカーヴェルは穏やかに微笑んでいた。




