62.
まるで原作のエリカの役割がカーヴェルに移ってしまったようだ。
それは流石に言い過ぎだろうか。
ただ名前ばかりの公爵夫人として暮らしていたエリカと違いカーヴェルは多忙だ。
彼女の様に生活の大半を子供たちとの交流に充てることは出来ない。
(原作のエリカも後半は隙あらばケビンが会いに来るからそこまで暇では無かったけれど)
階段を下り終えた私はカーヴェルに纏わりついているレオに声をかけた。
「鯉も宿題も私が一緒に見てあげるわ」
「奥様……?」
カーヴェルが驚いたように顔を上げる。
ここまで近づかないと私に気が付かないとは彼はやはり疲れている気がした。
「げっ」
レオは隠しもせず不愉快さを表に出す。
この子供にとっては私はお邪魔虫にしか見えないのだろう。
確かに私はカーヴェルと違ってレオに懐かれることはそこまでしていない。
だが一応切り札のようなものはあるのだ。
「あら、そんな態度で良いの? 今日はクッキーを焼くつもりだったのだけれど」
「うっ……」
レオの顔に迷いが浮かぶ。私はそれを若干複雑な気持ちで見つめた。
原作でレオたちの胃袋を掴んだエリカ特製クッキー。それを再現できないかと試したのは三日前。
焼きあがったそれを味見した上で、レオとロンに食べさせたところ二人とも良反応だった。
しかしどうにも原作通り絶賛という域までには達していないようだ。
(まあ私自身が原作から外れまくっているし、期待し過ぎるのも図々しいわよね)
こうやってレオとの取引に使えるだけでもマシだろう。
しかしレオは誘惑を断ち切るように首を振って叫んだ。
「そんなのいらない、俺はカーヴェルと居る!」
私がクッキーを出したなら無言で平らげおかわりを要求するのに、そこまでカーヴェルと一緒に居たいのか。
でもここで引き下がったら宿題の後もレオはカーヴェルを引き留めるに違いない。
そうすると彼は家令の仕事を順当にこなせない。
私が駄目なら、カーヴェルの次にレオが懐いている人間を使えばいい。
けれど私にはそれをしたくない理由があった。
上階から視線を感じた気がして私は首を上げる。
濃い茶色の髪をしたメイドの後ろ姿が見えた。
(マレーナ……)
カーヴェルの次にレオが懐いているのは昔から彼付きのメイドをしていたマレーナだ。
しかしレオを精神的にも物理的にも彼女から引き離したいという思いが私は有った。
(レオはマレーナの異動だけは断固拒否したのよね)
私は難しい顔をしているレオに内心で溜息を吐く。
今のマレーナは言い方は悪いがレオにとって、今は遊ばないけれど大切な玩具に見えた。
放置しておけば強い興味は持たないが奪われそうになったら大騒ぎをする。
そして多分マレーナもそのことを知っているから悠然としているのだ。
もしかしたら私が彼女を疎んでいることも理解して、今このような状況になっているのを楽しんでいそうだ。
もう栄養価を無視して山盛りクッキーでも提案してしまおうかと思っているとカーヴェルがレオの前に膝をついた。
「レオ様、では鯉は私と見に行きましょう」
「カーヴェル……」
「そうして宿題の成果は奥様に御覧頂きましょう。きっと沢山のご褒美を下さいますよ」
にこりと眼鏡の奥の瞳が優しく微笑む。カーヴェルが小学校教師だったら大人気だろうなと思った。
いや中高大全部で人気になるだろう。
「……わかった。 おい、クッキーをちゃんと焼いておけよ!」
「クッキーを楽しみにしてると言い換えたら、ココア味も焼いてあげるわ」
「……クッキー、楽しみに、してやるっ! カーヴェル行くぞ!!」
そう前半は噛みつくように言ってレオはカーヴェルを引っ張っていった。
私はひとまず安堵すると、クッキーの制作を前倒しにすべく公爵夫人用のミニキッチンに向かう。
しかしそんな私を男性の声が呼び止めた。
「捜しました、奥様」
「……ブライアン?」
「本日届いた手紙の確認をお願いできますでしょうか?」
家令補佐のブライアンが幾つか封筒を抱えている。
急ぎじゃなければ部屋に届けてくれても良かったのにと思ったがとりあえず受け取った。
上から順番に目を通し、見慣れない名前に眉を顰める。
「これは珍しく私宛ね。差出人は……先日解雇したレオ付きメイドの家から?」
きっとお詫びの手紙などでは無いのだろうな。
私は筆圧の強さを感じさせる書き文字に溜息を吐いた。




