51.
「奥様」
体が完全に倒れ込む前に後ろから支えられる。
「アイリ……」
私は背中を掴む腕の主の名を呼んだ。彼女が助けてくれたのだ。だから地面に衝突せずに済んだ。
そして私が持つカンテラが揺れ、その光の中に青年の広い背中が浮かんだ。
先程割れたのは彼が落としたカンテラなのだと気づく。
驚くような速さでカーヴェルは池へと近づいていた。
まるで豹が獲物を見つけたような素早さだった。
「や、嫌だっ!」
「大丈夫です」
レオの泣き声と、それを宥めるような低い声。
それから間を置かず大きな水音が聞こえる。
「レオ君、カーヴェル!」
私は二人の名を叫んだ。心臓が強い力で握りこまれたような寒気がした。
心配なのはレオだけじゃない。カーヴェルもだ。
原作での彼の死因は溺死だった。
「アイリ離して!二人を助けなきゃ……!」
「大丈夫です、奥様」
私を支えたままのメイドに懇願するが彼女は落ち着いた様子で言い返す。
「あの池は浅いです、以前掃除の時に入ったことがあります」
「だとしても、転んで頭を打ったりしたら……!」
淡々と告げるメイドに私は言い返す。レオが持っていた大きな石だって危険だ。
そんな私にカーヴェルの声が届く。
「……大丈夫ですよ、奥様」
優し気な声に振り向くと微笑を浮かべた彼がレオを大切そうに抱き上げていた。
その両膝は地面に突いている。レオの身長に合わせた結果そうなったのだろう。
「池に落ちる前に間に合いました。レオ様にお怪我はありません」
「良かった……!」
立っていただけなのに全力疾走した後のような脱力感が体を襲う。先程の水音は石が落ちた音だったのだろう。
私はアイリの手をそっと外した。そしてもう大丈夫だと頷く。
今度は転ばないようにと二人にゆっくり近づく。
カーヴェルの服は所々泥で汚れていて、顔を飾っていた眼鏡が消えていた。
「貴方、眼鏡が……」
「えっ、ああ……落としてしまったのかもしれません」
「じゃあ探さないと……」
私は慌てて言うと離れた場所からアイリの声が聞こえた。
「地面には確認できません。池に落とされたのでは?」
「有難う御座います、だったら朝探した方が良いですね」
落ち着いた様子でカーヴェルは言う。
「でも眼鏡が無かったら屋敷まで戻るのも大変じゃない?」
「殆ど度は入っていないので大丈夫です。前職の癖で掛けていただけですので」
そう言われ安心する。冷え切った夜闇の中よりは日が昇った後に探す方が楽だし安全だ。
前職の癖というのは少し気になったが掘り下げないことにする。
私はコートを脱いだ。カーヴェルの腕の中のレオが震えていたからだ。
「ほら、着なさい」
小さく華奢な体に自分のコートを着せてやろうとする。
しかし乱暴に腕で払われた。
「……何でだよっ!」
「何がよ」
レオの癇癪はまだ収まっていないようだ。
でも危険な事をし過ぎなので拳骨の一つは流石にしておこうか。
そんなことを私が考えているとは知らずレオは叫んだ。
「何で良かったなんだよ!!」
「……は?」
「良かったじゃないだろ!俺を怒れよ!」
予想外のことを言われ一瞬動揺する。
いや今怒ろうとしていたところだったんだけれど。
私は自分の拳と涙目のレオを交互に見つめた。レオが自分を抱えているカーヴェルを睨みつける。
「どうせお前だって、俺が怪我したら父様に怒られるから助けたんだ、ろっ?!」
私の拳骨がレオの頭に制裁を下す。懐かしい痛みを拳に感じた。
「いい加減怒るわよ」
「もう怒ってんじゃないか!!」
「当たり前よ。怒ることばっかりしてるじゃない」
私はカーヴェルからレオを貰い受けると問答無用で自分のコートでくるんだ。薔薇臭いと言われたが無視した。
「じゃあ何で俺なんて助けたんだよ!」
私の腕の中で暴れながらレオが騒ぐ。私は身動き取れないように力を込めながら言った。
「子供が怪我しそうだったら普通大人は助けるわよ」
「そうです、レオ様」
私の言葉にカーヴェルは同調する。
彼のズボンは泥で汚れているだけでなく水で濡れているようだった。池の水がかかったのだろう。
早く屋敷に戻って着替えさせた方が良い。
「レオ君、話は帰ってから幾らでも」
「普通って、何だよ……」
話を切り上げようとした私にレオのか細い声が問うて来た。
普通とは何か。中々難しい質問をしてくる。しかし今は帰宅だ。
「普通というのは当たり前のことよ」
「お前の当たり前は俺の当たり前じゃない、お前は滅茶苦茶な女だ」
「あらそう、帰るわよ」
「待てよ、質問に答えろ!」
容赦なく引き摺って帰ろうとするがレオは暴れて抵抗してきた。
(カーヴェルに引き渡して運んでもらおうかしら)
私が若い家令に視線を向けると彼はニコリと笑った。
眼鏡が無いとその顔の良さにこちらの目が焼かれる気がする。
「奥様、私がお運びいたします」
「有難う、楽な持ち方で構わないわよ」
「おい、俺を荷物扱いするな!それとお前は誰だ!」
じたばたと暴れるレオをカーヴェルは丁寧に、そして楽々と持ち上げた。
それでもレオは暴れているがカーヴェルはびくともしない。
「私はカーヴェル・コートネイ。ホルガーの息子で家令見習いになります」
「お前がホルガーの息子? ……全然似てないな!痛っ!」
私は失礼なことを言うレオの額にデコピンをした。