4.
前公爵夫人のリリー・アベニウス。
彼女は産まれた時から体が弱く、二人目の出産に耐えきれなかった。
そして生まれてきたのが目の前の子供ロン・アベニウス。
彼は生きている頃の母の顔を知らない。それだけでも不憫な子だと思う。
なのに兄のレオはそんなロンを母殺し扱いし憎んでいる。
まだ十歳の子供だ。母親を失ったのは辛く悲しいだろう。
前世の私が両親を看取ったのは中年と呼ばれる頃合いだったがそれでも寂しかった。
でも母を失ったのはロンも同じだし、何より彼は何一つ悪くない。
「子供が生まれるのは親が望んだから。貴方は何も悪くないの」
少なくともアベニウス公爵家はそうだ。
リリーは自分の体が弱いことを知っていて、出産が体に強い負担をかけることを知っていてそれでもロンを産むことを選んだ。
その判断の是非を問う資格は私には無い。
ただもしその行為について正しいのか間違いだったのかを糾弾されるなら父のケビンと母のリリーだ。
ロンが責任を追及されるなんて間違っている。
「貴方は……僕がどうやって生まれたか知っているんだね」
ロンが苦しそうな顔で言う。私は少し迷って頷いた。
原作のエリカは公爵家の人間に教えて貰うまで知らなかったけれど、アベニウス前公爵夫人の死因は別に隠されていない。
なら私が既に知っていてもおかしくはない。
一応アベニウス公爵家に輿入れしてきたわけだし。
もし追及されたら嫁ぎ先について事前に調べて置きましたとでも言えばいい。
「でも僕に優しくしない方が良いよ、貴方も嫌われてしまうから……」
「大丈夫よ、もう嫌われているもの」
私は胸を張ってそう言い切る。同時に腹の虫が派手に鳴った。
体が若いからか、やたら元気な音だった。
「あっ」
「お腹、空いてるの?」
「ち、ちょっとね……」
不思議そうに言われて私は顔を赤くして頷く。流石にこれは恥ずかしい。
第二陣が来そうになって私は腹を押さえた。
するとロンが自分のポケットをゴソゴソとまさぐる。
そして小さな掌を私に差し出した。
「これ……大人の人じゃお腹いっぱいにはならないかもしれないけど」
大き目のキャンディのような物を手渡される。
包み紙のシンプルさから見て手作りだろうか。
「ファッジ……甘くて美味しいよ、でも甘い物が嫌いならごめんなさい」
「有難う、甘い物は大好きよ」
私は笑顔で礼を言った。
ファッジというのは、確か飴やキャラメルに似てるけど歯ですぐ噛み潰せる甘いお菓子だ。
バターと砂糖を使っていてカロリーと糖分の塊だから空腹を紛らわすにはもってこいだろう。
「うん、とっても美味しい!」
私が早速それを頂いているとロンは安心したような顔をした。
「良かった、前お腹が鳴った兄様に同じことをしたら……施しはいらないって捨てられちゃったから」
「食べ物を捨てるなんて……うちでそんなことしたらご飯抜きよ」
「そんなことされないよ、兄様はこの家の王様だから」
「王様?」
「うん、そして僕は奴隷。だから絶対逆らっちゃいけないんだ」
まだ八歳の子供の口からとんでもない言葉が飛び出す。
弟が兄の部下ならまだわかる。同族経営の会社とかならあることだから。
でも子供の頃からそんな上下関係が刻み付けられていて、しかも兄が王様で弟が奴隷だなんて異常だ。
更にこの認識を持っているのがロンだけではない。先程捨て台詞を吐いて行ったレオも同じだろう。
腹が立つと同時に疑問が浮かぶ。
誰がこんな歪んだ力関係を幼い兄弟に植え付けた?
王と奴隷なんて関係を十歳の子供と八歳の子供だけで思いつける筈がない。
私は噛み砕いたファッジを飲み込むとロンに向かい尋ねた。
「貴方たちが王と奴隷だなんて、そんな間違った知識を誰に吹き込まれたの?」
「それは……」
彼が何か言おうとするのを、乱暴に打ち消すような声が飛んでくる。
「ロン坊ちゃま、いつまで遊んでいるのですか!」
その声の主は老年の女性だった。肌を見せないドレスをきっちりと纏い金縁の眼鏡が日光にギラギラと輝く。
「マーベラ、先生……」
「貴方には遊んでいる暇などありません!」
扇を威圧するようにパシパシと鳴らしながら老女は騒ぐ。
威厳を見せつけているつもりのようだがヒステリックな印象で見苦しい。
しかし老人に怒鳴りつけられれば大人しい子供はすぐ萎縮してしまう。
案の定ロンもすっかり猫背になり、震えていた。
「ご、ごめんなさい」
「ただでさえ不出来な生まれなのだから、少しでもお兄様の役に立つ為に努力をなさい!」
ああ、思い出した。
私は心の中で呟く。
レオとロンの一番目の家庭教師マーベラ夫人。
ケビンの代から家庭教師を務めるこの老女が「一輪の花は氷を溶かす」内で二人に歪んだ思想を植え付けていた。
つまり、子供たちの前から直ちに排除しなければいけない敵と言う事だ。
私は空腹を忘れマーベラを睨みつけた。