39.
ホルガーの居る部屋に戻った私は治療費は公爵家が賄う件を説明した。
彼は控えめだが確かに喜びの表情を浮かべる。
「有難う御座います、奥様」
「お礼は公爵様に言って頂戴」
口にした直後それは難しいかもしれないと気付いた。
ホルガーが歩けないから私がケビンに手紙を運んだのだし、ケビンが家令を見舞うような人間とも思えない。
前言を撤回しようとした直後ホルガーが言う。
「はい、愚息がご挨拶させて頂く時にしっかりと」
愚息とはカーヴェルのことか。
彼が家令に就任したならアベニウス家当主のケビンに挨拶する機会は当然あるだろう。
漫画内だとそう言ったやりとりは省略されていたが。
「カーヴェルはいつ頃から勤務可能なの?」
「今日明日にでも……と申し上げたいですが、流石にそれは難しいですね」
「彼には連絡済みなのかしら」
「一報を届けるよう手配致しました。カーヴェルが手紙を受け取ったなら本日中に私を迎えにくると思います」
「それなのだけれど……ホルガー貴方、暫く公爵邸で療養して貰えないかしら?」
家令として十数年公爵家を取り仕切っていたホルガーが突然抜けるのは正直困る。
腰から上は達者なのだから可能ならアドバイザーとして屋敷に暫く残って欲しかった。
「カーヴェルだってその方が心強いと思うし、仕事も効率良く覚えられると思うの」
「そうさせて頂けるなら有難いですが……しかし働いてもいないのに屋敷に御厄介になるというのは」
「いいえ、後任指導も立派な業務よ。ただ給与については公爵様に又相談する必要があるけれど」
「給与など結構でございます! 愚息の仕事ぶりを間近で確認させて頂けるならそれだけで……!」
立ち上がる勢いで喋るホルガーを落ち着くようにと宥める。
痛み止めで麻痺しているのかもしれないが腰痛が回復した訳では無いのだ。
「わかったわ。ただそれでもカーヴェル一人で家令の仕事をこなすのは難しいわよね」
「家令補佐のブライアンがおります。彼ならカーヴェルの不出来な部分を助けてくれるかと」
「ああ……」
家令補佐。その単語を聞いた瞬間私の口端が引き攣った。
ホルガーが信頼してるらしきブライアンこそ「一輪の花は氷を溶かす」内でカーヴェルを孤立させていた黒幕なのだ。
漫画内ではエリカが使用人たちにカーヴェルが努力しているところを説明して解決する。
使用人たちから好かれているエリカがカーヴェルを信頼し支持したことにより、屋敷内で彼を家令として受け入れる空気になる。
けれどブライアンだけはひっそりと辞表を出し去っていくのだ。
原作のエリカは「ブライアンさん、どうして……」と不思議がっていたけれど、どうしてもこうしてもない。
今まで二番手の位置にいたのに、突然出て来た未経験の若手が自分の上に来る。
余程上昇志向が皆無だったり人間が出来て無ければ穏やかではいられないだろう。
一番無難なのはブライアンを家令に繰り上げしてカーヴェルを副家令にすることだ。
(でも私、笑顔を浮かべて裏で陥れようとする人間を部下として使いたくないのよね)
ブライアンはカーヴェルと親子ほども年齢差がある。
しかし突然来て家令になったカーヴェルに対しても穏やかで敬意有る接し方をしていた。
けれど裏ではカーヴェルの指示を改ざんして他の使用人に伝えたり、コソコソと陰湿な嫌がらせをしていたのだ。
それを何回か繰り返しカーヴェルがブライアンにそれを指摘するとわざとらしいぐらい落ち込んで見せた。
まるでカーヴェルが自分より家令に相応しいブライアンを敵視し甚振っているように他の使用人に思わせた。
(気持ちはわからないでもないけれど、やり方が気に入らないわ)
なのでブライアンを家令にしようとは思わない。
ただこのままだとカーヴェルがアベニウス家で勤務開始次第原作と同じことが起きるだろう。
問題なのは私はまだ他の使用人たちと打ち解けていないことだ。
それどころかメイドと家庭教師を一人解雇している。
そんな私がカーヴェルを擁護しても誰も心からの同意はしないだろう。ケビンみたいにゲスの勘繰りをされて終わりだ。
ホルガーも暫く屋敷内にいるとはいえ腰痛で部屋からは出られない。
かといって現状ブライアンはまだ何もしていない。
なので彼を解雇する理由は無いし彼が辞表を出すことも無いだろう。
「ねえ、ブライアンってもしかして自分が次の家令になると思ってたりしない?」
私はホルガーにそう尋ねる。彼は少し考えた後首を振った。
「いいえ、私の後は息子が継ぐだろうとは大分前に説明しておりますし特に不満などは口にしておりませんでした」
自分には筆頭の立場は荷が重いので有難いと言っておりましたよ。
そう朗らかに言うホルガーを見ながら私はブライアンは相当面倒臭い人間だと再認識した。