30.
ホルガーがケビンに対して手紙を書きたいと言うので一旦席を外した。
確かに家令として長年勤めていた上に急に辞めるとなったら幾らでも伝えたいことはあるだろう。
感傷的な意味でも実務的な意味でも。
「じゃあその間に公爵夫人の怪我でも診せてもらおうかな。それが私の呼ばれた理由だしね」
そう言ってレインは私にウィンクした。
親戚だけあってケビンに似ているので色々と微妙な気持ちになる。
「では私の部屋でお願いします」
流石にホルガーの前で背中を出す気にはなれない。
元々の予定通り公爵夫人室に案内しようとする私にレインは大袈裟に肩を竦めた。
「やれやれ、こんな可愛い奥さんと私が寝室で二人きりなんてケビンの奴に妬かれないかな」
「大丈夫ですよ、あの人は亡き奥様しか眼中にないので」
私が微笑んで口にするとレインは固まる。
ホルガーは手紙を書くのに集中している振りをしていた。
「それにレイン先生と私で間違いが起きるなんて有り得ませんから」
そう言って私は扉を開ける。レインは微妙な表情で何か小声で言っていた。
無視して部屋の外に出る。暫く歩いているとレインが診察鞄片手に追いかけて来た。
公爵夫人室まで特に会話せず二人で歩く。途中で何人かメイドと擦れ違った。
挨拶するメイドと私を無視するメイドの二種類が居たので、ちゃんと記憶しておく。
ただどちらもレインにはちゃんと挨拶をしていた。
私を無視してそれをするメイドたちに呆れる。
「貴方たち、そんな子供じみた真似をして困るのはレイン先生だとわからないの」
実際私の横のレインは苦笑いを浮かべるしかなかった。
当たり前だ。公爵家の使用人が公爵夫人を無視して親戚の自分にだけ挨拶をしているのだから。
レインが私を排斥したい虐めてやりたいと積極的に思っていないなら困惑するに決まっている。
彼女たちは何も言わず私を睨みつけると小走りに逃げて行った。背中だけでなく頭も痛くなる。
溜息を吐いた後、到着した公爵夫人室にレインを招き入れる。そして頭を下げた。
「申し訳ありません、使用人教育が全く出来ていなくて」
「いや仕方ないよ、昨日今日この家に来たわけだし寧ろよくやってると思うよ」
「そうでしょうか」
「うん、ホルガーに関しての采配とか凄い事だと思うよ。私が君と同じ年にはそんな風にしっかりしていなかった」
まあ中身は外見年齢通りじゃないしねと思う。そんなこと話したり出来ないけれど。
「でも結婚式の時の君は、凄く緊張していて大人しくて……今の君とは別人みたいだったな」
レインの言葉に私は顔を上げる。緑の瞳からは感情が窺えなかった。
別人という指摘に一瞬心臓が跳ね上がるのが分かった。相手が何気なく口にした言葉だとしても。
正確には別人ではない。
エリカ・オルソンとして十七年間生きて来た記憶はある。
ただ性格は随分と変わってしまった。
元々のエリカは良くも悪くも善性の塊で誰も恨まず清く正しく生きていけばきっと幸せになれると信じていた。
しかしその願いにヒビを入れたのが初夜でのケビンの態度だ。
エリカは信じていたのだ。夫になったケビンならわかってくれるだろうと。
二人きりで話せばきっと悪女だという誤解は解けると。
しかし会話など無かった。男遊びが激しいなら乱暴に抱いていいよなというとんでもない事を一方的に言われた。
そしてショック死するレベルの精神的衝撃を受けて、心を守るために気絶した。
原作のエリカはその後普通に目が覚める。
そして乱暴されてないことに気付き、ケビンの冗談を真に受けて初夜を台無しにした自分に青褪める。
ただ今回は何故かエリカとその前世である私の性格が切り替わったようになってしまった。
(エリカも本当は逃げられるなら、逃げたかったのかもね)
辛い現実に耐えられなくて別の人格を生み出し肩代わりさせた人物の本を読んだことがある。
それと今の私たちに起きていることが全く同じ事象とは限らないけれど、似たようなものではと取り合えず私は結論付けておいた。
「そうですね。確かに別人に思えるかもしれません。でも弱いままでは生きていけないと思ったので」
「え……」
「初夜の時公爵様に悪女なら乱暴に抱いても構わないだろうと言われました。そして今日は思い切り壁に叩きつけられました。その時に出来た痣を治して欲しくてお呼びしたのです。」
「そんな、ケビンが……嘘だろう?」
レインが表情を固くしながら言う。私は少しだけ失望した。
でも仕方ないのかもしれない。
だってレインはケビンのことが好きなのだから。
「嘘ではないですよ。診察して頂ければわかります」
私はそう言うとレインの前でドレスを脱いだ。