27.
恥ずかしそうなロンを微笑ましく眺めていると、空気が変わるのを感じた。
視線を上げるとマーサがどこか緊張した表情でこちらを見ていた。
「どうしたの?」
何か言いたいことがあるのだろう。
言葉を向けてあげるとマーサは少し躊躇う素振りをした後に口を開いた。
「奥様、その……マーベラ夫人が家庭教師を解雇されるというのは本当なのでしょうか」
マーサは期待と不安が入り交じる瞳でこちらを見ていた。
私も彼女に目線を合わせ頷く。
「そうよ。本日付で家庭教師の職務からは離れたわ」
まだ屋敷内には居ると思うけれど。
心の声は決して漏らさないようにする。
わざわざホルガーに命じてまで子供たちを地下牢に近づけさせないようにしたのだから。
少し遠くからざわめきが聞こえて振り返る。図書室に滞在していたメイドたち数人がそそくさと書棚の陰に移動していくのが見えた。
別に人払いはしていないし、聞かれて困る会話でも無いから良いけれど。
見えない視線が背中に突き刺さる。
メイドたちは私からは隠れるが出ていくつもりは無いし、この会話も聞く気満々なのだろう。
私はそれを無視してロン達に視線を戻した。
「左様で、ございましたか……」
ほっと胸を撫で下ろしマーサはわかりやすく安堵を見せた。
ロン付き侍女のマーサから見てもマーベラ夫人は家庭教師として難ありだったのだろう。
「次の家庭教師はまだ未定だけれど、兄弟で格差を付け過ぎない人物を選ぶつもりよ」
「奥様、どうか宜しくお願い致します」
深々と頭を下げる様子に、どれだけこの侍女がマーベラ夫人の『教育方針』に対し思い悩んでいたか見えた気がした。
まあロンに対して親身な人物なら誰だってあの家庭教師に多大な不満を抱くに違いない。
解雇が事実だと知ってわかりやすく大喜びしないだけマーサには分別があった。
そういえばロン本人はどう思っているのだろう。
少年の方に視線を移すと彼は幼い顔に似合わない複雑な表情を浮かべていた。
一番近い感情は困惑だろうか。私の視線に気づいたのかロンもこちらを見上げて来た。
「あの、おくさま」
「えっ」
ロンの呼びかけに私とマーサは揃って目を丸くした。彼は恐らくマーサの呼び方を真似たのだろう。
しかし公爵令息から公爵夫人への呼びかけとしては不適切過ぎる。
確かに私も実家ではオルソン伯爵夫人の事を奥様と呼んでいたが、ロンとエリカでは立場が違い過ぎるのだ。
私は慌てて彼の前にしゃがみこんだ。
「エリカで構わないわよ」
「奥様、流石に呼び捨ては……」
マーサに控えめに意見され、それもそうかと反省する。
「私の事はそうね、エリカおばさんとでも」
「奥様」
「あの……エリカ姉様って、呼んでもいい?」
マーサに二回も諌められた私を見かねたのかロンの方から呼び方を提案してくれた。
姉様。少し気恥ずかしいが今の私は十七歳なのだから確かにおばさん呼びよりは合っている。
「ええ、そう呼んで頂戴。私はロン君と呼んでも構わないかしら?」
「はい、あの……お母様って呼べなくて、ごめんなさい」
申し訳なさそうに言うロンに対し私は安心させるように微笑む。
「大丈夫よ。前にも言ったけれど私と貴方は知り合ったばかりなのだから当然のことだわ」
私だってレオとロンのことを息子とは認識していない。
こうやって話しているとせいぜい初めて会う親戚の男の子という感じだ。
(特にロンは漫画内であまり出番が無かったし……)
彼は物語序盤で兄のレオに虐められ子分みたいな扱いをされていた。
その後レオがエリカに懐いてからは兄弟仲も改善したがロンがメインになる回は無かった。
なので大人しい良い子という印象ぐらいしかない。
(エリカと会わなかったレオは将来魔王みたいな暴君になるらしいけれど、ロンはどうなっていたのかしら)
大人になったレオのイラストはわざわざ描き下ろしされていたけれど、大人になったロンに対しては言及すら特に無かった。
作者自身が兄弟で随分と差をつけていたのだと今更になって気づく。
ケビンといい性格に癖があって尖っているキャラが作者の好みだったのかもしれない。
「あの、エリカ姉様」
「どうしたの、ロン君」
「マーベラ夫人ってどうして急に家庭教師じゃなくなるの?」
不思議そうに質問される。私としてはあんな人物すぐ解雇されて当然だと思うが彼は違うらしい。
「だって、父様の時代からずっと家庭教師をしていた人で誰も逆らえない筈なのに」
「……それはマーベラ夫人が言っていたの?」
私が聞くとロンは頷いた。
「僕を奴隷呼ばわりすることにマーサが怒っても、父様に信用されてるのは自分だからマーサが解雇されるだけだって言ってた……」
「そんなことを……」
「だから僕は兄様の奴隷呼ばわりでも、仕方ないと思ってた」
そう言いながらロンは自分のズボンをぎゅっと掴む。
彼がマーベラ夫人の言いなりだったのはそう洗脳されただけでなく侍女のマーサを庇う為でもあったのかもしれない。
「あのね、マーベラ夫人はそこまで偉い人じゃなかったの。なのに自分が偉いと思って言ってはいけないことを沢山言ったから公爵様が怒ったのよ」
私はロンの青い瞳を見つめながら言う。
ケビンがマーベラ夫人のやりたい放題を咎めなかったのは信頼していたからではない。無関心だったからだ。
マーベラ夫人にも自分の子供たちにも。
「言ってはいけないこと?」
首を傾げ聞き返すロンに私は頷く。
「そうよ、王様の弟や王子様の弟がいらっしゃるのに弟という存在を馬鹿にしたり、他にも結果として前の奥様を馬鹿にするようなことを言ったり……」
そこで言葉を切る。そして先程よりも大き目の声で言った。
「私の年齢や外見、生まれや育ちまで馬鹿にした結果、そんな私を妻に選んだ公爵様のことまで馬鹿にしたと物凄い怒りを買って解雇されてしまったの」
当たり前よね。私がそう微笑むと同時にどこかで生唾を呑む音がした。
目の前のロンやマーサでは無い。二人は納得した様子で頷いているから。
(聞いたからにはちゃんと胸に刻んで、同僚たちにも周知してくれると助かるわ)
正直これ以上使用人に馬鹿にされて説教してを繰り返しやるのはうんざりなのだから。
私はこちらの会話に聞き耳を立てているらしきメイドたちに内心で呟いた。