20.
私が図書室に籠ってから小一時間ほどしてホルガーが呼びに来た。
マーベラ夫人を地下牢に移すだけで結構な時間だ。
しかし調べものがあったから待たされても苦にならなかった。
それに呼びに来たホルガーが一気に老けたように見えたので責めるようなことはしなかった。
マーベラ夫人はどうやら大人しく移動しなかったようだ。
暴れる老人を別の場所に移すのは多大な苦労だろう。
ケビンみたいに殺意を背に脅せば大人しくなるだろうが、恐らくホルガーでは無理だ。
「お疲れ様、怪我は無い?」
「はい、マーベラ夫人に怪我は御座いません」
「彼女じゃなく移動させた人たちの心配をしているのだけれど……」
「……引っかき傷を作った者が二人おります」
「そう、しっかり消毒して手当をする必要があるわね。医者を呼んでも……いえ、医者を呼んで頂戴」
「奥様、そこまで重症では」
「今思い出したけれど私も医者にかかる必要があるのよ」
私がそう言うとホルガーは驚いた顔をした。
まあ、彼と対面してから一切具合悪そうな様子などしていないので気づかなくても仕方がない。
「背中に打撲の痣が出来ていて古傷の上だったから、湿布で済ませていいのか迷ったのよ」
「かしこまりました。ではかかりつけの医師を手配いたします」
「ちなみに打撲の原因は旦那様に壁に叩きつけられたからで、古傷は異母姉に鞭打たれて出来た物よ」
そう補足するとホルガーの顔色はどんどん悪くなった。
彼も医者に診て貰った方がいいかもしれない。
「……旦那様は、昔は優しい方だったのです」
苦し気に言われた台詞に奇妙な懐かしさを感じる。
(ああ、漫画内でもこの人同じことを言っていたわね)
家令を退職する時にホルガーはエリカにそう伝えた。
貴方なら昔の旦那様に戻せるかもしれないと。
私はそのシーンを思い出しながら口を開いた。
「でも今優しくなければ意味無いわ」
凶悪犯罪者だって子供時代まで遡れば優しい良い子はそれなりにいるだろう。
昔優しかったからどうだというのだ。悪霊や悪魔や人面瘡に操られてて、退治すれば戻りますという訳でも無いし。
「変わった理由が明確で、適した対処をすれば元の優しい人格に戻るなら子供たちの為に治療した方が良いとは思うけれどね」
「それは……難しいことだと思います」
「でしょうね」
目の前にいるホルガーは「貴方なら昔の旦那様に戻せる気がするのです」とは言わなかった。期待されても困るので助かる。
ケビンはもう諦めて次代のレオやロンたちがまともに育つようホルガーたち使用人には頑張ってもらいたい。
「そうだ、子供たちは決して地下牢付近に近づけないようにお願いしたけれど……」
「大丈夫です、スケジュールを調整した上で地下牢までの廊下に見張りを配置しております」
「有難う」
別にマーベラ夫人を拷問したりするつもりは無いけれど、彼女が何を言うかわからない。
暴れて口汚く罵ってくる老人の時点で子供に見せて良い物では無いし。
「安心したわ。では向かいましょう。この本は持って行っても大丈夫?」
「はい、奥様」
軽い会話の後で、私たち以外人払いしてあった図書室を後にする。
そこから別の棟に移動し誰とも擦れ違わなくなってから暫くすると地下に行く為の扉が有った。
付近には屈強な男とメイド服の女性がいる。私はその女性を見て驚いた。
「アイリ?!」
「男の方はクレイグと申します。今回だけでなく奥様の便利に使って頂いて結構です」
無言でお辞儀をする二人をホルガーはそう紹介した。
「そう、これから宜しくね」
私は男女の使用人に声をかける。二人ともホルガーのお気に入りなのか。
アイリがあそこまで有能だったことに納得した。
「マーベラ夫人の名誉を考えれば大人しく移動して欲しかったのですが、結局クレイグたちの力を借りることになりました」
「最初からそうした方が良かったと思うわ。腰は大丈夫?」
ホルガーはそれに答えず微妙な表情で微笑んだ。
マーベラ夫人の名誉より自分の腰を大事にして欲しい。
「では、参りましょう」
ホルガーが鍵束を使い木の扉を開ける。すると地下へ向かう階段がすぐ出て来た。
それをホルガーを先頭に下りると金属製の扉が出てくる。顔に出さないが内心緊張した。
「扉を開けたらマーベラ夫人が飛び掛かって来るとかは無いのよね?」
前世で息子たちがやっていたホラーゲームを思い出し尋ねる。
「大丈夫です、強固な檻がありますし決して奥様を傷つけさせはしません」
「有難う、でも貴方も怪我しないでね」
会話を交わした後にホルガーが扉の鍵を開く。
重い音で扉が動くと同時に興奮した猿のような声が容赦なく耳に突き刺さって来た。
「私を誰だと思っているの、お前たち!! 先代様が御存命なら鞭打ちですからね!!」
「何でこの手の女って鞭打ちが異常に好きなのかしら」
私は異母姉のローズを思い出しながら檻の中のマーベラ夫人を眺めた。
彼女は椅子に縛られた上に両手に布を巻かれて拘束されていた。凶悪犯罪者並みの扱いだなと思った。
私は壁に飾ってある鞭を見つける。
「ホルガー、あの鞭が欲しいわ」
「かしこまりました奥様」
命じると家令はすぐにそれを渡してくれた。
私はそれを持って檻の向こうのマーベラ夫人に微笑む。
「鞭打ちをお望みなら、私がして差し上げてよ?」
「なっ……!!」
彼女は怒りに赤く染まった顔を恐怖に青くして、そしてまた怒りに赤くした。
壊れた信号の様だと思った。修理は難しいから撤去が必要だとも。




